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『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』原作を見事に映像化した、名匠アン・リーの手法とは
2019.08.14
パイの宗教観の描き方
原作では、パイがヒンドゥー教とキリスト教とイスラム教を平等に信仰するという、特異な性格の持ち主として描かれている。日本人の場合、複数の宗教に対し浅く信仰心を抱くというのは、特に珍しいことではない。だが、一般的にインド人の信仰心は日本人より強く、3つの宗教を同時に信じるというのは、パイが相当に変わっているということだ。
この彼の特徴は、「聖人のような崇高な人物である」とイメージさせ、「パイはけっしてウソなどはつかない人物だ」とミスリードすることで、「2つ目のストーリー」の意外性を強調させている。だがストーリーが進んで行くにつれ、キリスト教やイスラム教の要素は、特に活かされることもなく忘れられてしまう。
リーとマギーは映画化にあたり、このパイの宗教観を積極的に活かしていった。やはり原作と同様にキリスト教とイスラム教については、さわり程度に触れられただけだが、視覚的表現によって神の存在を印象付けている。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(C)2013 Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC. All Rights Reserved.
例えば少年期のパイは、ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌの像に祈りを捧げている。この像を横から見たのと同じ形が、彼が訪れた親戚が暮らすインドのムーンナールに連なる山々の形(*7)に用いられている。さらに分かりやすいのが、漂流生活の終盤で遭遇する奇妙なミーアキャットの島(*8)で、夜になって島の全景像が映し出されるが、やはりヴィシュヌのシルエットになっているのだ。
またパイが漂流中に、ベジタリアンでありながら魚(*9)を殺して食べるシーンでは、「ありがとうヴィシュヌ様、あなたは魚に変身して僕たちの命を救って下さいました」と祈らせている。こういったことからも、彼の本質はあくまでヒンドゥー教徒だと分かる。
一方で、漂流中にボートが嵐に遭遇して海面に落雷の放電が拡がる場面では、パイは神が降臨したと解釈し、「神を称えよ、全知全能の神を!」と叫んでいる。ここでは特定の宗教というよりも、大自然に対する畏敬の念といった感じだ。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(C)2013 Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC. All Rights Reserved.
そしてリーとマギーは、あからさまに奇跡体験を描く宗教映画的表現を避け、嵐に翻弄されて息も絶え絶えになっているリチャード・パーカーを同時に見せることで、パイの神に対する思い入れが一方的過ぎることも描いている。このことは少年期のパイが、無神論者の父親(アディル・フセイン)と対立する場面も思い出させる。
*7 これはクレージー・ホース・エフェクト社がマットペインティングによって描いたもので、同社はキリスト教の教会やイスラム教のモスク、ヒンドゥー教の寺院も描き加えた。同社は他にも70年代のインドの風景を再現するために、膨大な量のマットペイントを行っている。これらは立体視で表現しなければならないことから、作業はより複雑さを増した。
*8 この島は単一の植物から出来ている浮島であり、根は食べられる海藻で、海面上では樹木のようになっている。島の地表には、無数のミーアキャットだけが群生しており、他の植物や動物は一切いない。また島の各地に澄んだ真水を湛えた沼がある。パイは植物の根を食料とし、木の上を住処にしようと決める。だが夜になると、ミーアキャットたちが一斉に木に登ってきて、沼にいた魚が死んで浮かび上がる。やがてパイは、植物の果実を発見するが、中には種でなく人間の歯が入っていた。つまりこの島を構成する海藻は、夜になると強酸性に変り、動物を溶かして吸収してしまうのである。パイは、この島が食虫植物のような存在だと気付き、再びリチャード・パーカーを乗せて脱出する。このくだりをどう捉えるか。1つ目は「パイが飢えや乾きによる疲労で、正常な思考が持てなくなったことで見た幻覚」と素直に解釈するもの。2つ目は、「この島の存在が地球の生態系を表現している」という見方である。つまり、植物を底辺とする食物連鎖のピラミッド構造が、昼夜で逆転するというものだ。それにより「食べるもの:食べられるもの」の関係が強く意識され、ヒンドゥー教や仏教などの輪廻観にも繋がってくると解釈できる。また、直立して密集するミーアキャットたちは人間の比喩であり、「人類がいつかは生態系から反逆される」と暗示している…といった深読みも可能である。3つ目は「マジックリアリズムの影響」と見るものである。つまり特に理由や説明もなく、突然ホラ話のような不可思議な状況に移行していく形式だ。
*9 この魚(シイラ)は、レガシー・エフェクト社が手掛けたアニマトロニクスで表現されている。同社は、ツィムツーム号の船倉にいる動物たちのアニマトロニクスも手掛けた。