時代の寵児となったフォンダ、ホッパー、ニコルソン
この映画が画期的だったのは、主演のフォンダとホッパーが製作・監督・脚本もかねていた点だろう。今でこそ、俳優が自身で監督する作品も増えたが、60年代後半にはレアなケースだ。シンガーソング・ライターではないが、自作自演の映画が作られることで、作り手の感覚がこちらにもストレートに伝わる。ホッパーの演出にはつたないところもあるが、主人公たちが鳥のように自由にハイウェイを走る描写には嘘がなく、こちらもその旅を素直に体感できるのだ。
この作品はインディペンデント映画として大ヒットを記録した記念碑的な作品でもある。アメリカを代表する評論家のひとり、ポーリン・ケールは「ニューヨーカー」でこの映画を紹介しているが、それによると、以前はアメリカのアート系映画館では主にヨーロッパ映画が上映されていたという。しかし、『イージー・ライダー』などの登場でアメリカ映画の上映が増えたようだ。
「若い観客たちが列を作って上映を待っている。通りに座り込んだ客も、立っている観客もいるが、彼らはエンタテインメントを見るために集まった観客ではない。そして、劇場で待つという行為を通じて、新しいコミュニティを作り上げている」『イージー・ライダー』はアート系映画の興行を変えた映画でもあった。
映画の発火点となったのは、フォンダの主演作『ワイルド・エンジェル』(66)である。ここでヘルス・エンジェルスのバイカーを演じた彼は映画のスチール写真を見ていて、『イージー・ライダー』のアイデアが浮かんできたという。そこで『白昼の幻想』(67)でフォンダと共演していたデニス・ホッパーに相談し、フォンダが製作、ホッパーが演出を担当することになった。
『ワイルド・エンジェル』予告
最初、彼らは『ワイルド・エンジェル』や『白昼の幻想』の監督だった“B級映画界の帝王”ロジャー・コーマンのところに企画を持ち込んだ。コーマン自身は乗り気だったが、彼が所属するAIPの他のプロデューサーが、問題児として知られたホッパーの起用に対して不安を抱き、結局は独立系のバート・シュナイダーが製作し、コロムビア映画で配給されることになった。
シュナイダーはアメリカのアイドル・グループ、ザ・モンキーズのテレビ番組で大儲けをしていた。そして、そのモンキーズ主演の奇妙な映画『恋の合言葉HEAD!』(68) の脚本を手がけていたのがジャック・ニコルソンだった。そんな人脈を通じて製作者が決まり、ニコルソンが弁護士役を演じることになった。彼はフォンダやホッパー同様、コーマン一家のひとりで、『白昼の幻想』の脚本も担当していた。『ワイルド・エンジェル』で描かれたバイクの疾走感、『白昼の幻想』でのドラッグ・カルチャーの描写の発展形が『イージー・ライダー』でもあった。
共同脚本はこの時代の伝説的なライターのひとりでもあるテリー・サザーンで、彼はピーターの姉、ジェーン・フォンダ主演の『バーバレラ』(68)の脚本を手掛けた縁で、ピーターと知り合い、この企画に携わった(脚本は彼の功績が大きいと考えられている)。また、ハンガリー出身で、ロジャー・コーマンのもとで働き、後に名カメラマンとして評価されるラズロ・コヴァックスの撮影も映画の成功に貢献している。オールロケによる映画が実現することで、リアルな臨場感が増している。
ロック映画としても画期的な作品で、フォンダたちは楽曲の使用許可を得るため、ミュージシャンたちに試写を見せたという。ステッペン・ウルフのテーマ曲『ワイルドでいこう』(ボーン・トゥ・ビー・ワイルド)はまさにこの時代を代弁する曲となっている。
『ワイルドでいこう』MV
フォンダはボブ・ディランが歌う「イッツ・オール・ライト・マ」をエンディングに希望していたが、ディランの許可が得られず、ロジャー・マッギン(ザ・バーズのメンバー)が歌う同曲が映画の後半に使われる。マッギンはエンディングに流れる『イージー・ライダーのバラード』も歌っているが、フォンダの伝記によれば、この曲の最初の歌詞を書いたのはディランらしい。
ザ・バンドの名曲「ザ・ウェイト」も象徴的な曲になっていて、旅人の不安な気持ちをピタリと代弁する(ザ・バンドは試写の後、全曲を自分たちに担当させてほしい、と申し出たそうだ)。また、ザ・バーズの「ウォズント・ボーン・トゥ・フォロー」では「誰かに従うために生まれてきたんじゃない」という歌詞が繰り返され、映画のテーマが代弁される。他にもジミ・ヘンドリックスの強烈なギターが印象的な「イフ・シックス・ウォズ・ナイン」など、どの曲もふたりのバイカーの動きにピタリと寄り添う。ドラッグの幻想性を描写する場面でも、音楽が効果を発揮する。
既成曲を映像にはめ込むことで、映画の内容を表現するという手法は、当時としては画期的で、『イージー・ライダー』は映画音楽の新しい方向性を示す作品にもなっている。