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『イージー・ライダー』ハイウェイを自由に旅する、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンに思いを馳せて

(c)Photofest / Getty Images

『イージー・ライダー』ハイウェイを自由に旅する、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンに思いを馳せて

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日本での宣伝方針、スバル座での反響



 日本で映画が公開されたのは70年1月で、東京では有楽町スバル座にかけられ、23週間という画期的な興行となった。


 「今でもスバル座は『イージー・ライダー』の劇場として知られています。これまで何度も上映され、困った時の『イージー・ライダー』といわれていました」そうコメントするのは、この劇場の現在の支配人、足立喜之さん(スバル興業株式会社・興行部)である。


 この映画の宣伝を担当した元コロムビア映画・宣伝部の大森淳男さん(現在は映画宣伝会社、株式会社ドリーム・アーツ代表取締役社長)は始まりの時をこう振り返る。


 「私がコロムビア映画に入社したのは69年の10月で、初めて宣伝を担当したのが『イージー・ライダー』でした。日本公開は70年の1月に予定されていました。字幕担当は太田国夫さんでしたが、宣伝部長に呼ばれ、これは若い人の映画なので、字幕を今風の言葉に直してほしい、と言われました」そこで入社したばかりの新人が、ベテランの字幕家と相談しながら、字幕を作り上げたという。「怖いもの知らずでしたね。どこか紋切り型の言葉もあったので、くだけた表現に変えていただくように字幕家の方に伝えたこともあります」



『イージー・ライダー』(c)1969 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.s


 大森さんによれば、当時、宣伝に関して力をいれたのはラジオや新聞といったメディアだったという。「テレビ・スポットのように映像を使った宣伝は、まだ主流ではありませんでした。この映画の場合、音楽が売りになると思ったので、ラジオ局に音楽がらみで売り込みました。また、当時は活字が強かった時代で、新聞の映画評がいいと観客が動員できたので、朝日や読売といった大手新聞の映画評を必死に押さえるようにしました」


 映画のジャンル分けとしては、すでに“アメリカン・ニューシネマ”という枠があったので、その路線の映画として売り出した。「それまでのハリウッド映画はあまりにも楽観的なものが多かったのですが、ニューシネマは現実を映し出した映画が多かった。時代の産物で、それが当時としては新鮮に見えたのでしょう。ただ、この映画が日本で大ヒットするとは、誰も思っていませんでした」


 ところが、封切初日、スバル座に行ってみると、ものすごい行列ができていた。その列は劇場の2階のロビーから1階の階段下、さらに地下商店街にのび、さらに地上に出て、当時あった日東紅茶の先まで続いていたという。「当時、映画は斜陽産業といわれていたんですが、その列を見て、新人だった私は、どこが斜陽なんだろう、と思ったものです」


 スバル座の客席数は310席だが、1週目の動員は約1万9千人。当時は消防法が今のように厳しくなかったので、とにかく、詰め込めるだけ劇場に観客を詰め込んだ。その後、23週間という大ロングラン上映となり、この劇場だけで17万8千人の動員となった。



『イージー・ライダー』(c)1969 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.s


 「ひとつにはファッション性もあって受けたのだと思います。革ジャンやハーレーのバイクなど注目されていました。観客層は圧倒的に若い人でした」と大森さん。観客の中には改造バイクで劇場にやってくる人もいて、劇場前にはそうしたバイクがずらり並んだこともあった。


 一方、支配人の足立さんによれば、東京都内だけではなく、別の地域からも観客が来ていたという。「スバル座は有楽町の駅前という分かりやすい場所にあったので、他の場所からもお客様が見えていました。有楽町にある劇場で、『イージー・ライダー』を見た、というのが、ひとつのステータスになる時代だったんでしょうね。当時は別の方が支配人でしたが、聞いたところによれば、ロビーにハーレイのバイクも展示していたようです」


 その後、同じジャック・ニコルソン主演の『ファイブ・イージー・ピーセス』(70)、『バニシング・ポイント』(71)など、アメリカン・ニューシネマの代表作もこの劇場にかかっている。前者には『イージー・ライダー』で娼婦役を演じたカレン・ブラックも出演していて、彼女の出世作としても知られている。自分の居場所を見つけられない男の孤独を乾いたタッチで描き、ボブ・ラフェルソン監督の知的な演出が評判を呼んだ。


『ファイブ・イージー・ピーセス』予告


 「ザ・ビートルズの『レット・イット・ビー』(70)のようにスバル座は音楽映画も多いですね。東宝としては個性的な作品が目立ちます。スバル座は支配人が好きなことができる劇場だったと思います」と足立さん。


 オクラになりかけた『アメリカン・グラフィティ』(73)を救ったのもこの劇場で、興行的にむずかしそうな作品の受け皿にもなっていたという。80年代以降はジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)のようにニューヨーク系のインディペンデント映画もかけられ、アート系ミニシアターのような役割も果たした。


 そんなスバル座も今年の秋に閉館となる。前身となった丸の内スバル座のオープンは1946年。その後、火事などもあり、66年に有楽町スバル座として再開。戦後の日本と共に歩んできた映画館にもピリオドが打たれる。閉館前の10月5日~20日にかけて<スバル座の輝き>と題されたメモリアル上映も予定され、この劇場の守護神だった『イージー・ライダー』も久しぶりに上映される。


 一方、大森さんが、現在、宣伝にかかわっている作品はクエンティン・タランティーノ監督の渾身の一作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)。奇遇にも『イージー・ライダー』が全米公開された69年が舞台となっている。この映画にも『イージー・ライダー』を思わせるヒッピーのコミューンのような場所が登場し、時代の混沌とした空気が伝わってくる。


『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』予告


 「日本に関していえば、当時は学生運動の時代でもあり、あの頃、学生運動に参加して、権力に対抗した若者たちは自分たちの力で世の中を変えられると信じていたのでしょう。反体制の時代でしたからね」と大森さん。

 

 『イージー・ライダー』はそんな時代の雰囲気を伝える作品でもあった。ちなみに映画雑誌「キネマ旬報」では、評論家の投票でその年の外国映画ベストワン作品にも選ばれている。



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