2019.09.22
フリアーズ監督の家に届いた一冊のシナリオ
この映画に関して今では伝説となっているのが、その始まりの物語だ。ある時、フリアーズ家のポストに一冊のシナリオが入っていた。それはパキスタン系の作家、ハニフ・クレイシの手によるものだった。彼は自身の親族にヒントを得てこの作品を書き上げた。それを読んですぐにフリアーズは映画化を決意。「でも、パキスタンのゲイの青年がランドリーを始める話なんて、映画にできるとは思わなかった」と彼は当時のことを回想する。
そこでテレビ映画としてこの作品を撮ることになった。80年代に英国にはチャンネル4という新しい国営放送局が誕生したからだ。この局は映画作りに力を入れ、「Film for Four」という時間枠を持っていた。70年代に多くテレビ映画を手掛けていたフリアーズは、この新しい局を受け皿と考える。脚本家のクレイシも「その方が商業的なプレッシャーがなくていいと思った」とあるエッセイの中で書いている。
イギリスはもともとテレビ・ドラマの質が高く、60年代は同じく国営放送のBBCからジョン・シュレシンジャー監督(『真夜中のカウボーイ』(69))、ケン・ラッセル監督(『恋する女たち』(69))、ケン・ローチ監督(『ケス』(69))といった才能ある作り手たちが飛躍のチャンスをつかんでいる。チャンネル4では、後に『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94)を手掛けるニール・ジョーダン監督の『殺人天使』(82)、『女王陛下のお気に入り』(18)にも影響を与えたピーター・グリーナウェイ監督の『英国式殺人事件』(82)等が作られ、どちらも劇場公開されて評判を呼んだ。
『マイ・ビューティフル・ランドレット』は特に大きな期待もなく、1本のテレビ映画として産み落とされた。そして、スコットランドのエディンバラ映画祭でプレミア上映されると大反響を呼んだ。
英国を代表する評論家のひとり、デレク・マルコムは「この画期的で、とても興味深く、多くの議論を呼ぶであろう作品が劇場公開されなかったら、テレビ局と映画界の創造的なコラボレーションには、今後、希望が持てなくなる」(「ザ・ガーディアン」)と、当時、書き残している。以後、世界中から配給のオファーが次々にやってきて、アメリカでも大きな反響を呼んだ(前述のように数々の賞も受賞)。
この映画が日本で公開された87年。実はロンドンのスティーヴン・フリアーズ宅を訪ね、インタビューが実現した。フリアーズはカンヌ映画祭で話題を呼んだ次作『プリック・アップ』(87、ゲイリー・オールドマン主演)もすでに完成させていた。映画界では新人扱いされていたが、すでに40代半ば。テレビや舞台の仕事で力を蓄え、『マイ・ビューティフル・ランドレット』で認められたが、遅咲きのせいもあり、突然、やってきた評価も冷静に受け止めていた。
『マイ・ビューティフル・ランドレット』はテレビ作品だったが、「テレビと映画では撮るスタンスが違いますか?」との問いには「特に変わらない」と答えた。あくまでもひとつの作品という観点で考えていたようだ。取材時、特に忘れられなかったのは「サッチャー政権が何もしてくれないから、その怒りを込めた映画を作った」という言葉だった。80年代にサッチャー政権は、インフレから脱却するため、経済の活性化を図ったが、それによって貧富の差も広がり、文化に携わる人々の反発も買っていた。
劇中、パキスタン系の移民の青年、オマールは事業家として成功した叔父のおかげで仕事を得る。移民の台頭で、彼らが経済的に力を持ち始めたわけだが、一方、ロンドンっ子のパンク青年、ジョニーやその仲間は仕事にあぶれている。そんな矛盾した社会状況を描きつつ、どこかユーモアも入っているところが、この映画の魅力でもあった。そんな描写に関して監督自身は「悲惨な状況だからこそ、逆にユーモアも必要だと思っている」と答えていた。
けっして人に愛嬌をふりまくタイプではなく、職人道を貫きつつも、わが道をゆく。そんなタイプの人に思えた。好きな監督のひとりとしてマーティン・スコセッシをあげていたが、『マイ・ビューティフル・ランドレット』でデイ・ルイスが演じた役名はジョニー(ジョニー・ボーイとも呼ばれる)で、これはスコセッシの『ミーン・ストリート』(73)でロバート・デ・ニーロが演じた役名だ。
フリアーズは、その後、スコセッシ製作のスリラー『グリフターズ』も手掛けていたが、おそらくストリート派のスコセッシはこの映画や次作『プリック・アップ』でフリアーズが見せたザラザラした下町の感覚が気にいって一緒に組んだのだろう。