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『ぼくのエリ 200歳の少女』愛と血は同じ色――静謐と残酷がせめぎ合う幻想恋愛譚 ※注!ネタバレ含みます。

『ぼくのエリ 200歳の少女』愛と血は同じ色――静謐と残酷がせめぎ合う幻想恋愛譚 ※注!ネタバレ含みます。

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主人公「だけ」が彼女の正体を知らない切なさ



 『ぼくのエリ 200歳の少女』と同ジャンルにカテゴライズされる映画は、『ビザンチウム』(12)、『イノセント・ガーデン』(13)、『獣は月夜に夢を見る』(14)、『RAW 少女のめざめ』(16)、『テルマ』(17)辺りだろうか。すべて、女性×変異を描いた作品たちである。人と人ならざるものの恋愛という観点では、『美女と野獣』(17)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(17)、『ワイルド わたしの中の獣』(16)、『ウォーム・ボディーズ』(13)も入るかもしれない。


 『ぼくのエリ 200歳の少女』が興味深いのは、『RAW』や『テルマ』にあるような“謎”を最初から明かしてしまうことだ。物語が始まって10分足らずでエリの父が通行人を殺害して血液を採取するシーンが挿入され、予備知識なしに観たとしても観客はエリの正体が容易に想像できるだろう。20分過ぎにはエリが直接人を殺して血を吸う姿が描かれ、序盤で彼女の正体は判明してしまう。



 本作がミステリー要素を敢えて薄めている理由は、「主人公だけが知らない」状態を作り出すためだろう。エリの父親も、エリの犯行現場を目撃した街の住人も、そして観客も――オスカーを除く全員がエリの正体を知っている状態で紡がれる「初恋」は、切なさを引き立たせ、より悲劇的な色調に変化する。何よりも、観客自身がそう見てしまう。ここが肝心だ。


 『ぼくのエリ 200歳の少女』の本質はラブストーリーであり、エリの正体はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』や『アラジン』(19)でいうところの「身分」や「家柄」と同じ、恋の障壁を生み出す「要素」。故に、隠さない方が“自然”なのだ。


 その上で、オスカーの「視界」に注目したい。エリの正体を匂わすヒントは、彼の周囲にいくつも配置されている。分かりやすい部分で言えば、冒頭シーン。マンションに引っ越してきたばかりのエリの父親は、何よりもまず窓をふさぐ。ブラインドがあるのにも関わらずだ。そして前述の中庭での会話があり、オスカーがお菓子をあげるとエリは吐いてしまう。彼女に年齢を聞くと「大体12歳」と妙な返事が返ってきて、エリと会えるのはいつも夜だ。


 細かい部分では、オスカーが通う学校の授業で登場する教材は『ホビットの冒険』、終盤の重要なシーンで机に並べられているのはスマーフの人形と、「人ならざるもの」がすぐ近くにある。また、本作ではほぼすべてのシーンに赤色、またはそれに近しい色味のものが映り込むように作られており、オスカーの視界にも常に「血」のイメージが提示されている。


 観客においては、これらのヒントたちが余計に悲恋を予感させ、憐憫を掻き立てるトリガーになっているといえるだろう。原作者のヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト自身が脚本に参加していることもあり、ラブストーリーにおける観客の感情面での誘導が、実に巧みに行われている。



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