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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

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不透明な監督交代劇と第三の監督



 かつて東宝で民主主義の謳歌を描いた『青い山脈』(49)を撮った後、フリーとなってより自由な映画製作の場を求めた今井は自ら企画した『また逢う日まで』(50)を成功させるなど順調にキャリアを重ねていたが、時あたかもレッドパージによって、共産党ならびにその関係者は職を追われ、今井も大手映画会社から締め出された。そのために屑屋を開業して生計を立てたこともあったが、東映のプロデューサー、マキノ光雄の有名な「おれは右でも左でもない。映画を愛する大日本映画党だ」(『今井正の映画人生』新日本出版編集部編)の一言で東映に招かれて撮った反戦映画『ひめゆりの塔』(53)を大ヒットさせたが、これは今井の映画監督としての才能もさることながら、自らの思想信条と、映画会社が求める企画に応じて両立させるバランス感覚を持っていたからでもある。それゆえにオリンピック映画でも映画的な感動を今井ならばもたらしてくれるに違いないという目論見がオリンピック映画協会にはあったのではないか。


 1964年の年頭に行われた『キネマ旬報』からの取材に「オリンピック映画の演出依頼があったことは事実ですけど、ゴタゴタしているようです」と答えた今井は、契約日が決まりながら1、2か月が過ぎても音沙汰がない上に新聞記者たちから自分の起用に反対の声があることを耳にし、遂に田口会長を訪ねて事情を問い質した。今井の随筆によると、田口は「ある方面から横槍が出ているのは事実だが、それがどういう人達であるかは言えない。しかし今になって監督を代えなければならないような事態になるならば、自分は映画製作から手を引く積りだ、とにかくもうしばらく待ってもらいたい」(『潮』65年8月号)と答えたという。


 黒澤に続いて今井までも不可となると、田畑たちの手前もあって田口は自らの進退問題へ発展する危機感を憶えていたのではないか。そうした危機的な状況を今井は悟ったのか、「私はT氏の立場も気の毒に思い、場合によっては他の人にやってもらっても結構であると話して戻った」(前掲)。


 ここが今井正という映画監督の狡猾なところというか、大手映画会社と自らの思想信条を共存させる術を持っていたところでもあるのだが、「しかし私は自分から止めるとは言わなかった。これは思想の自由に対する弾圧であって、私が自らおりれば、その弾圧を認めたことになると思ったからだ」(前掲)と言ってのける。つまり、相手の立場も慮って解決策を示唆しながら、自分から降りるとは言っていないから、プライドは保たれる。どうやらそれが「今年夏には橋本忍さんのオリジナル『仇討』を撮る予定なので、オリンピックの方はどうなりますか」(『キネマ旬報』)という今井の説明を拡大解釈したかのような、〈今井正氏は、スケジュールの都合がつかないため〉という理由になったとおぼしい。


 今井の随筆の文末は、「しばらくたって、私は市川(崑)君が監督となったことを新聞で読んだ。T氏からは何の挨拶もなかった。どうしてもやってみたい映画でもなかったから私は別にどうとも思わなかった」と苦々しい空気を残して終わる。だが、黒澤とはまた違った今井正の撮る生命力に満ちた『東京オリンピック』も観たかったと思うのは筆者だけではないだろう。


 そして1月13日、田口は大映社長の永田雅一を通して市川崑に監督依頼を行った。市川は即答を避けて永田に一任し、1週間後の20日になって永田の頼みを受け入れる形で正式に承諾した。開催まで残り264日に迫る中での監督決定だった。市川は時間的余裕がないことから、「監督を私の他に数人起用したい旨を田口会長に述べた」(『中央公論』65年8月号)。このとき市川が共同監督に名を挙げたのは、羽仁進、大島渚、増村保造、勅使河原宏だった。30代を中心にした当時の日本映画で意欲的な作品を発表していた若手監督ばかりであり、先鋭的な映像技法を大胆に取り入れる監督やドキュメンタリーも手掛けたことがある監督が揃っているところからも、市川が彼らに期待するものがうかがえる。


 しかし、「これらの四氏を私同様に長期間拘束する経済的裏付けが不可能である由で、私は交渉するにも至らないで諦めざるを得なかった」(前掲)と、この意欲的なアイデアは陽の目を見ないまま終わったが、今井の場合と同様、別の力も働いたようである。市川曰く「二氏を除き、もう一つの理由があげられていたが、それはあまりにも馬鹿馬鹿しいので、ここでは書かない」(前掲)。おそらく作品にも色濃く反映されていた大島渚の政治思想への危惧なのだろうが(もう1人は羽仁進だろうか?)、いずれにせよ、こうした可能性をみすみす逃したのは〈馬鹿馬鹿しい〉に違いない。


 ところで、黒澤は監督辞退後も助言は惜しまないと発言していたが、実際には市川が監督になってからの『東京オリンピック』には関わっていない。しかし、「市川さんはローマオリンピックを観ていないため、親しい黒沢監督を訪ねて助言を求めていた。(略)黒沢さんは機嫌よく『ビリで頑張っている選手もいい顔をしているよ』などと、こまごまと助言している」(『評伝 田畑政治』)という証言もある。


 黒澤は市川が撮った『東京オリンピック』について、娘の黒澤和子にこう語ったという。


「コンちゃんの東京オリンピック映画は素晴らしかった。賛否両論だったけど、僕は好きだった。繊細で独特の視線でコンちゃんらしくて良かった。資金を倹約しながら、独自の美しさを出したのは流石だよ。お金がたんまりあれば、いい映画が出来る訳では無い、工夫と努力だといういい見本だね」(『文藝春秋』92年5月号)



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