Index
混迷する後任監督探しと今井正監督の内定
黒澤明のオリンピック記録映画からの正式辞退を受けて、組織委員会は東京オリンピック映画協会に後任監督の選定を依頼した。最終的に新藤兼人(フリー)、今井正(フリー)、渋谷実(松竹)、今村昌平(日活)、市川崑(大映)の5人まで絞られた(括弧内は所属を示す)。海外の映画祭で評価された監督を中心に推薦されたようだが、これらの候補者について組織委員会は問題なしと回答しており、オリンピック映画協会によって1人に絞られることになった。
最有力候補だったのが今井正である。『にごりえ』(53)、『真昼の暗黒』(56)、『米』(57)、『キクとイサム』(59)など、同時代の評価では黒澤を遥かに凌ぐ存在だっただけに、オリンピック映画を担う監督に相応しい。さっそく交渉が開始され、「今井氏も気持ちを動かしていると伝えられる」(『讀賣新聞 夕刊』63年11月24日)とされていたものの、1か月後には一転して「ほとんどきまりかけたが、東映で予定している劇映画と製作期間が重なるため、今井氏も断念せざるを得なくなった」(『讀賣新聞』63年12月29日)と報じられた。
たしかに、今井は1964年に東映で『越後つついし親知らず』『仇討ち』を撮っており、過密スケジュールではある。実際、『東京オリンピック オリンピック東京大会組織委員会会報(22)』には、「最初候補に上った今井正氏は、スケジュールの都合がつかないため、再度白紙から人選をやり直し」とあり、これが公式見解である。
一方で別の見方もある。今井に決定しかけていたが、「組織委内部には今井監督のものの考え方に難色を示すものもあり、その人選には関係者も頭を痛めてきた」(『朝日新聞』64年1月18日)というのだ。〈ものの考え方〉と曖昧な書き方をしているが、ようは今井が日本共産党員であり、反戦思想の持ち主であるがゆえに、特定の思想信条が映画に持ち込まれることを警戒しての〈難色〉だったのではないか。
だが、そもそも本当に今井は監督する意志を見せたのだろうかという疑問も残る。戦中は国威発揚映画を撮り、戦後はその悔恨を抱き続けてきた今井は、当時の最新作である『武士道残酷物語』(63)を語る中でも、個人の中の戦争責任と天皇制について言及している。そんな監督が、果たして国家事業であるオリンピック映画に手を染めるだろうか。
当事者の今井の視点から見てみよう。今井の随筆『まだ晴れぬ大きな暈』(『潮』65年8月号)によると、1963年の暮に「オリンピック映画の製作責任者T氏から監督を引き受けてくれという依頼を受けた」という。T氏とはオリンピック映画協会の会長である田口を指しているのだろう。だが、今井は即座に辞退した。その理由は、「私は日本でオリンピックを開催することに賛成ではなかった。そんな金があったら、老人ホームを増設したり身体障害者を収容する施設を拡充したり、しなければならないことが山程あるという考えを持っていた」からであり、また「仮に私が監督を引き受けても、必ず途中から横槍が出るだろうと予想された」からでもあった。つまり、黒澤ですら思いのままにできなかったのだから、自分がやっても同様だろうと見越しての辞退でもあった。
しかし、田口は引き下がらなかった。今井はその経過をこう語る。「組織委員会にも絶対反対しないという確約を取り付けてあること、単に競技を記録するだけでなく世界はすべて兄弟であるというテーマを出した映画を作って欲しい、というような話をくり返し聞かされ、何回目かの話し合いの末私も引き受けることに決心した」。
つまり、実際にはかなり詰めた話が進行しており、「契約書を取り交す日取りも決まった」というから、今井の監督就任は発表直前まで進んでいたことになる。だが、なぜ〈東京オリンピックに不賛成〉の今井が引き受ける気になったのだろうか。当人の随筆には書かれていないが、『キネマ旬報』(64年2月上旬号)からの取材には別の理由を明かしている。曰く、「その演出料で借金を返し、自分の作りたい映画に十分な時間をかけて取組みたいからです」。
何とも節操のない答えに思えるが、今井としては切実な理由だった。前作の『武士道無残物語』はベルリン映画祭でグランプリを受賞したものの、この作品は東映がスケジュールの都合で8か月製作を延期したために、その間を無収入で過ごさねばならなかった。次回作は北九州の炭鉱事故を題材にした水上勉原作の『死の流域』と決定していたが、製作費がかかる上に炭鉱ものは当たらないという東映の判断で製作中止となり、準備に充てた4か月を無駄にしていた。この時期の今井にとって、『東京オリンピック』は条件さえ満たせば撮ることも厭わない状況にあったということになる。