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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 後編

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高峰秀子とオリンピック



 【前編】で記したように、『』の撮影中にベルリン・オリンピック記録映画を黒澤と観た高峰秀子は、周囲によって淡い関係を断ち切られた。監督になってからの黒澤は、フィルモグラフィから除外した共同監督作『明日を創る人々』を例外に、高峰の出演作を撮っていない。


 しかし、『馬』の後で黒澤が書いたシナリオには、高峰に当て書きしたとおぼしきヒロインが登場する。日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集に当選した『雪』である。これは『馬』の撮影で見聞きした東北の生活に材を取り、雪におおわれた寒村にやってきた物理学者の物語だが、脚本を読むと、若い学者に愛情を寄せる農家の娘ふみ役は高峰以外には思いつかない。実際、師の山本も「黒澤君は当時まだデコに惚れててね、その雪とデコとの連想で書いたんです」(『黒澤明を語る人々』朝日ソノラマ)と、『雪』のヒロイン=高峰秀子説を肯定している。この作品は映画化されることはなかったが、演出の構想を記した文章の中で、ふみ役について黒澤はこう書いている。


「ふみをやる女優さんにお願いします。雪が音もなく積る様に、ふみの美しさを、何時とはなしに観客の胸に積み上げる様に心掛けて下さい。貴女は先ず、雪の様な純白な心を持つのが第一なのです。ふみの心理を説明して下さい、などと利巧そうな顔をして僕に訊ねないで下さい。それは貴女の女の心で感ずる外は無い。僕はただ、ふみは雪なのだと云うばかりです。」(『新映画』1942年6月号)


 これはまさに高峰への実現しなかった〈演出〉の一端を感じさせる文章になっているが、監督になってからの黒澤が唯一、高峰に出演交渉したのが『醜聞 スキャンダル』(50)だった。この作品は黒澤がジャーナリズムの横暴へ憤りを感じたことから生まれたものだが、その義憤の原点には、助監督時代の高峰との関係を書き立てられたことが根ざしていたのではないか。実際、『醜聞』は旅先で出会って偶然同じ宿に泊まる新進の画家と声楽家が、相手の部屋を訪ねて2人でいるところをゴシップ誌に撮られたことからスキャンダルの渦に巻き込まれるというもので、この設定に【前編】で記した黒澤のアパートでの一件を思い出させる。黒澤自身、映画界に入る前は画家を志望し、プロレタリア美術運動にも身を投じたことがあるだけに、三船敏郎が演じた若き画家に自身を投影し、その相手役に高峰を選ぼうとしたのは、極めて個人的な体験が理由にあったのではないか。結局、高峰のスケジュールが合わないという理由で実現しなかったが、後年、この作品に出演しなかったことを高峰は「もし、出演していたら、私の人生は大きく変わっていたかもしれない」(『にんげん住所録』高峰秀子著/文春文庫)と含みを残した言い方で振り返っている。


 高峰が『東京オリンピック』に関わるのは、市川崑によって映画が完成した後のことだ。オリンピック担当大臣だった河野一郎が「東京オリンピックを記録として残すためにつくった映画の試写を見たが、芸術性を強調するあまり、正しく記録されているとは思われない。オリンピック担当大臣としては、これを記録映画として残すことは適当ではない」(『朝日新聞 夕刊』65年3月10日)と発言したことから、いわゆる〈記録か芸術か〉論争が巻き起こった。


 様々な立場の人々が意見を表明する中で、高峰は、『東京新聞 夕刊』(65年3月18日)に『わたしはアタマにきた 映画「東京オリンピック」をめぐって』という意見文を投書した。「私は、黒沢明氏にかわって、市川氏がオリンピック映画の総監督に選ばれたと聞いたとき、『お役人もなかなかしゃれた人に目をつけたじゃないか』と思った。が、しかしこれは私の早トチリだったらしく、関係者はそんなに大切な仕事を任せる『市川崑研究』どころか、もしかしたら氏の映画を一本も見たことがなかったのではないだろうか」と筆法鋭く関係者を批判して市川を擁護した。さらにこの記事がきっかけとなって河野大臣と週刊誌で対談することになり、市川との直接対話を直談判するという八面六臂の活躍で、『東京オリンピック』騒動を解決に導いた。


 それから5年、週刊誌の対談で市川と高峰がオリンピック問題も含めて回顧する対談が行われたが、収録を終えた市川が『赤ひげ』以来となる新作『どですかでん』を撮影中の黒澤を激励するために東宝スタジオへ行くと言うので、高峰も同行している。「世田谷・砧の東京撮影所。なつかしい私の古戦場である。黒沢明氏はキリンのような長身にサングラスをかけて、ステージの中にがんばっていた」(『潮』1970年9月号)と撮影現場の様子を記す高峰の脳裏には、黒澤と岩手の映画館で観た『オリンピア』や、黒澤から市川へと監督が交代した『東京オリンピック』、そして黒澤との仄かな思い出が甦っていたのだろうか。



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