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【ミニシアター再訪】第1回 1981・・・その1

【ミニシアター再訪】第1回 1981・・・その1

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転機となったヴィスコンティの未公開作『ベリッシマ』



 最初は封切り館ではなく、前述の『アメリカの夜』や『アデルの恋の物語』(75)、『バレンチノ』(77)といった旧作が名画座のように上映されていたが、思うようにお客が集まらない。そこでオープンから4カ月後、ルキノ・ヴィスコンティ監督の51年の未公開作『ベリッシマ』を上映することになった。


 吉田元支配人はもともとヨーロッパ映画の大ファンで、フランス映画やイタリア映画には思い入れが深かった。大好きな映画は『天井桟敷の人々』(45)で若い頃はこの映画が劇場にかかるたびに何度も繰り返し観ていた。また、60年代半ばには絵の勉強のため、イタリアに住んだこともあり、当時の映画ファンを魅了していたヴィスコンティやフェデリコ・フェリーニなどにも心を動かされた。


 日本では70年代後半からヴィスコンティ映画のブームが起こり、岩波ホールで上映された『ルードヴィッヒ 神々の黄昏』(72)や『家族の肖像』(74)などは大きな話題を呼び、彼の他の作品も入ってきたが、50年代に作られたシンプルなモノクロ映画『ベリッシマ』は日本では30年間、未公開のままだった。アンナ・マニャーニ扮する母親がわが子をスターにしようとする物語で、悲劇のイメージが強かったヴィスコンティ作品としては珍しく軽快な語り口でユーモアがある。


 8月に封切られたこの映画の興業は成功して、スタートしたばかりのシネマテンにも明るい兆しが見え始める。ヴィスコンティはその後、シネマテンの看板監督のひとりとなり、特にデラ・コーポレーション配給の『地獄に堕ちた勇者ども』(69)『ベニスに死す』(71)のリバイバル上映は行われるたびに観客を集めていた。



◉俳優座シネマテンの当時のチラシ。『ベリッシマ』のようにモノクロで手作り感あふれるものが作品ごとに作られていた。  



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