映像化された「失恋ショコラティエ」なども手掛けた漫画家・水城せとな氏と、『劇場』(20)も好評を博す行定勲監督。不確かで不格好な“愛”を見つめ続ける、作り手2人の初顔合わせが実現した。9月11日公開の映画『窮鼠はチーズの夢を見る』だ。
本作は、7年ぶりに再会した大学の先輩と後輩の関係が変遷していくさまを描いたラブストーリー。「自分を好きになってくれる女性」との受け身の恋愛ばかりを繰り返していた恭一(大倉忠義)の前に、大学の後輩だった今ヶ瀬(成田凌)が現れる。今ヶ瀬から「ずっと好きだった」と告白された恭一は、戸惑いながらも徐々に彼を受け入れようと努めていく。
漫画家と映画監督。表現方法が異なる両者だが、「物語を作り上げる」という点では共通している。ならば、互いに見ている“世界”はどう違うのか?
水城氏と行定監督が考える、「愛」というテーマから、キャラクター造形、ビジュアル面での作りこみについて……。トップクリエイター2人の「ものづくり論」を、たっぷりとお届けする。
Index
- 観客を能動的にしないと、原作に太刀打ちできない
- 弱さや愚かさこそ、人間らしさ
- 頭の中で、キャラクターが勝手に話し出す
- 主人公の靴に込めた人物像
- 「人間」を描く原作に見つけた、「背景」という自由
- 現代は、個人が“選択”を行う時代
観客を能動的にしないと、原作に太刀打ちできない
Q:作品を拝見して、改めて愛について考えさせられました。水城先生と行定監督にとって、愛とはどんな存在なのでしょうか?
水城:私は、色々な感情の中のピュアな部分だけを「愛」と呼んでいると考えています。だから純愛って言葉は「馬から落馬」みたいなものだと思っていて。「恋愛」とか「偏愛」とか、愛に何を付けるか、で物語になると思いますね。純なだけだと、つまり愛だけでは人間味のある物語は作りづらい。
物語が生まれるときは、承認欲求だったり性欲だったり、孤独を埋めたかったり。何かしらの“欲”があるもの。エゴがあるからこそ、ドラマになるんです。
行定:さすが、名言が出ましたね。
僕は、いまだに愛がわからないです。これだけラブストーリーを作っていても、愛を描いているとは思っていない。愛という言葉ほど希薄なものはないというか、信じていない部分があります。
映画『窮鼠はチーズの夢を見る』では、登場人物が愛に無自覚である、というような感覚で作りました。観客が彼らを観て、そこで初めて「こういうのを愛って呼ぶんだな」と思う。つまり、観客が能動的に観られるように設計したんです。
というのも、原作を読んだときに、セリフが洪水のように押し寄せてくるんですよね。愛に対する一つの局面をこれでもかと掘り下げているし、焦燥感が迫ってくる。この“圧”はきっと漫画でしかできない表現だと思ったんです。でも、生身の役者でそのままやると説明的になりすぎてしまうし、絶対に原作に打ち勝てない。映像化する際には、逆に引き算が必要だと感じました。
僕はもともと、漫画の映像化には懐疑的なんですよ。なぜなら、0から1を作って完結させているのが漫画だから。ビジュアルも空気感も、すべてが絵とセリフにこもっている。しかも水城先生の場合は、絵もさることながらセリフの熱量が圧倒的。そのため、あえて反対のアプローチをとりましたね。
今回映像化してやっと、映画の核を知りえた気持ちです。そういった意味では、制作中にずっと愛を追い求めていましたね。