『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』「映画を撮るために生きている」池田暁監督の奇異なる世界を楽しみ抜いた、前原滉&きたろう【Director’s Interview Vol.109】
日本映画の勢いを感じさせる、2021年。この盛り上がりは、海外の大作映画が公開延期を余儀なくされていることだけが要因とはいえないだろう。単純に、面白い作品が多いのだ。そんななか、またもや強烈な作品が劇場公開を迎える。第21回東京フィルメックス審査員特別賞を受賞した『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』(3月26日公開)だ。
毎朝9時から夕方5時まで、川の向こう岸にある隣町と“戦争”をしている町が舞台。兵隊の一人・露木(前原滉)はある日、伊達(きたろう)率いる音楽隊への異動を命じられた。職場環境が変わり、露木の淡々とした毎日に少しずつ変化が生じていく。
『ゴドーを待ちながら』を彷彿とさせる「不条理劇」に、戦争というシリアスな要素を混ぜた本作。虚構性の強い寓話の体を装っているが、そこにあるのは「男尊女卑」や「パワハラ」といった、現代社会の諸問題だ。この愛すべき問題作を作り上げたのは、国内外で高い評価を受ける鬼才・池田暁監督。感情をなくした人形のように登場人物を描きつつ、その奥に潜む欲動を鋭くとらえた。
今回は、池田監督・前原・きたろうの3者による鼎談を取材。観る者に強烈なショックを与える作品世界を、彼らはどのように作り出していったのか。たっぷりと聞いた。
Index
- 役者としては、監督が意図を言語化できなくてもいい
- 池田監督の作品に漂う「不条理さ」が面白い
- 池田監督は、スタッフに本当に愛されている
- 虚構の世界を作って、リアルの出来事を描く
- それぞれの感性の鍛え方・芸との向き合い方
- お互いにオススメしたい映画は……
役者としては、監督が意図を言語化できなくてもいい
Q:独特の世界観に呑み込まれる作品でしたが、現場ではどのようにして構築していったのでしょうか?
池田:きたろうさんに関しては、前回の『化け物と女』(17)でもご一緒していますし、前原さんに関しては撮影の3か月前くらいからトランペットの練習をしてくださっていて、撮影所にもちょくちょくいらしていたので、そこでコミュニケーションをとることができました。
あと、キャストの皆さんとはリハーサルをしっかり行っています。そこで積み上げてきたものをそのままロケ地に持っていって撮る、という形だったので、撮影中に僕が「こうして、ああして」ということはなくなっていたかなと思います。
Q:とはいえ、本作は画面内に映る人数がそれなりに多いかと思います。そのぶん大変だったかと思いますが、それぞれの役者さんのテンションやトーンを統一するために、どんなアプローチを行ったのか……。ぜひ教えてください。
池田:演技に関しては「この映画における表現の幅」とでもいうべきルール、リミットが僕の中で何となくは決めてありました。役者さんのやりたいことは結構受け入れるのですが、上限を超えた際に「ちょっとそれは違います」とお伝えする形でしたね。ただ、基本的には皆さんすごく理解してくださって、その幅に収まってくれました。
(c)2020「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」フィルムプロジェクト
Q:その「ルール」は、池田監督の感覚か言語化されたものなのか、どちらでしょう?
池田:完全に感覚ですね。だから、僕が皆さんにうまく説明できなくて。でも、やっていくうちにそれも役者さんと共有できてきて、撮影の後半では何にも言うことがない状態にまでなっていました。説明できたら皆さん楽なんでしょうが……(苦笑)。
前原:でも難しいですよね。きっと、人によって言葉が変わってくると思います。何ていう言葉を役者に与えたら機能するかって、役者1人ひとりでも違うでしょうし。逆に言葉で「こうです」と言われたら、戸惑うと思います。
たとえば「棒読みです」と言われたとして、本当に何も考えずに棒読みする役者もいれば、心の中では色々起こっているけど、表出方法として棒読み「に見える」やり方を選択する役者もいる。本作はまさに後者だから、「言語」でなく「感覚」で作っていけてよかったと思っています。
きたろう:ただ平坦にしゃべるのと、内面が埋まっているのとでは全く違いますね。前者だと観ていられないけど、個々の役者があえて抑えて作っていくから面白い。
前原:観ている側とやっている側の感覚が、結構違うかもしれないですね。僕自身は、池田監督の作品に飛び込むと決めた時点で、言語化できない感覚の境界を楽しんでいこうと決めていました。リハーサルでその塩梅を図りながら、見つけていきましたね。こういった喋り方で演技をすることは制約があるように見えるのですが、ある種自由でもあって。自分でも想像しえない角度から感情が生まれることもあったから、すごく豊かな現場だったと思います。