3つの才能をめぐり合わせた、ブライアン・デ・パルマ
始まりはポール・シュレイダーが書き上げたニューヨークの運転手をめぐるシナリオだった。脚本家になる前に批評家だったシュレイダーは、日本でも翻訳が出ている「聖なる映画―小津、ブレッソン、ドライヤー」(フィルムアート社刊)の著者としても知られている。
しかし、大事な執筆の仕事を失い、経済的に困窮し、おまけに私生活では離婚の危機にさらされた。袋小路に入った彼はロサンゼルスの路上の車の中で生活をし、夜はポルノ映画館で寝ていた。やがて、胃潰瘍になって入院。1か月間、誰とも口をきかなかったという。そんな中で思いついたのが、ニューヨークのタクシー運転手を主人公にした映画のアイデアだった。
退院後は元恋人の家にこもり、2週間で第一稿を書き上げたという。そこには当時の彼の心情も託されていた(シュレイダーは27歳だったが、映画の主人公は26歳の設定)。しかし、脚本はすぐに陽の目を見ることはなく、放置されたままだった。
『タクシードライバー』(c)1976 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES,INC.ALL RIGHTS RESERVED.
映画化に最初に興味を持ったのは、『キャリー』(76)などで知られる映画監督のブライアン・デ・パルマだった。シュレイダーとはミステリーの秀作『愛のメモリー』(76)で組んだ縁で、『タクシードライバー』の脚本を読み、気にいったという。ただ、自分は監督にふさわしくないと考え、友人のマーティン・スコセッシをシュレイダーに紹介した(当時、彼らは“スピルバーグやルーカスと共に”ハリウッド第九世代の監督”と呼ばれ、親しい関係だった)。
かつてロバート・デ・ニーロをスコセッシに紹介したのもデ・パルマだった。ミステリーやホラーのジャンルで監督として認められる前は、インディペンデント映画界でゴダール風の実験的な映画作りをしていたデ・パルマ。『ブルーマンハッタンⅡ』(68)、『ブルーマンハッタンⅠ』(70)といったニューヨークを舞台にした作品の主演は、若き日のデ・ニーロだった(註:先に作られた方が邦題は「Ⅱ」となっている)。
こうしてデ・パルマが縁で、シュレイダー、スコセッシ、デ・ニーロの3つの才能がつながり、『タクシードライバー』の核の部分が出来上がった。さらにデ・パルマは『悪魔のシスター』(73)や『愛のメモリー』で組んだ名作曲家、バーナード・ハーマンもスコセッシに紹介。ハーマンの参加も決まった(『タクシードライバー』の心に焼きつく音楽は彼の遺作となり、死の前日、完成している)。製作は『スティング』(73)のマイケル&ジュリア・フィリップスという70年代はヒットメイカーとして知られた夫婦のプロデューサーである。
『愛のメモリー』予告
こうしたメンバーたちがそろう前に、ジェフ・ブリッジズ主演、ロバート・マリガン監督で企画が進行しかけた時期もあったというが、最終的にはスコセッシがメガホンを取ることになった。シナリオを読んだ時の印象をスコセッシはこう語る――「まるで自分で書いた脚本であるかのような気になった。自分のやり方と違うところもあったが、でも、すごく理解できる内容で、強い感情が湧き上がってきた。自分が撮るべき映画だと思った」(“Taxi Driver”シナリオブック、90年、faber&faber社刊)
すぐには出資者が見つからなかったが、最終的にはコロムビア映画が130万ドルという低予算作品として製作することになった。参加者たちはギャラのカットも強いられたというが、報酬目的ではなく、創造性を発揮するため、この作品に挑戦した。