人形ではなく、「女優」として扱った撮影
そして、もう1人の重要な「役者」も忘れてはならない。それが、ビアンカ。最初から最後までラブドールではあるのだが、次第に「人間味」が見えてくるから不思議である。
本作の撮影では、ビアンカ用に9つの異なる顔が用意されたという。初登場時は出荷状態のまま濃い化粧をしているが、物語が進むにつれてナチュラルメイクへと変化。ビアンカがラースとの生活になじんでいくさまが、これらの装置によって表現される。
さらに興味深いのは、撮影現場でビアンカは1人の「女優」として扱われていたということ。彼女には専用のトレーラーが用意され、その中では私服を着ており、自分の出演シーンの撮影になると衣装を着て出てくる、というアプローチがなされたという。
このようなスタッフの献身ぶりは、そのまま劇中の町民たちの姿に重なる。本作における最大の魅力は先にも述べた通り、他人の妄想を現実化してあげる「優しい世界」にあり、その空気感が既に、現場の段階で出来ていたということだろう。
『マイ・ブックショップ』(c)Photofest / Getty Images
『ラースと、その彼女』の世界では、誰も面と向かってラースを批判したり否定しない。それよりも、ラースを受け入れるために自分たちがどう変わればいいのか?を考えるという思考回路が、本作独自のぬくもりを生み出している。ラブドールを生きた人間のように扱うラースに戸惑ったり、途方に暮れるというごくごく自然な感情は抱きつつも、周囲の人間に初めから「説得」や「懐柔」の意志はない。わずかに漏れる心無い声は、カリンやダグマ、マーゴたちの優しさによって塗りこめられていく。
そんな彼女たち自身に訪れる「変化」も、実に意義深い。ラースを治すために半ば付き合う形で始めた「ごっこ遊び」に近いセラピーが、次第に形を変え、ビアンカを本当の人間として認め始める。これは「皆がビアンカを人間だと信じる」といったようなオカルト的な意味合いでなく、ビアンカ=人形という認識は変わらないままでも、「人間」として共同体の中に迎え入れていくということ。ビアンカをそれぞれの日常に組み込むという行為を、自分の判断で「選択」していく。そこに、本作の大きなテーマがある。
正解や常識といった「枠」に当てはめてしまうのではなく、個々の価値観を受け入れ、それぞれが形を損なわれないまま共存できる道を探す――この映画が示す「理解できなくてもいい」「そのままでいい」という“救済”は、現代社会が標榜するダイバーシティ(多様性)の姿そのもの。公開から12年を経て、より一層重要性を増した「隣人愛」が描かれている。