妄想に反逆する自立心が、愛へと至る
『ラースと、その彼女』は、主人公の内面の成長を描いた物語でもある。先ほど「わからない」部分から「理解できる」状態へとスライドしていく、と述べたが、この映画だけのある特殊な構造が敷かれている。
それは、「物語に反逆する」という部分だ。ビアンカという存在は、ラースの心の状態が生み出したもの。いわば、ラースの心理を映す鏡だ。孤独や不安を埋めるために彼女を「呼び寄せた」のだとしたら、自分のもとに来てくれた時点でハッピーエンドだろう。
しかし本作は奇妙なことに、ビアンカの思考をラースが「わからない」という瞬間が徐々に生まれてくる。言い争い、距離が生まれ、歩み寄り、だがある問題が起こり……といった具合に、2人はまるでリアルな恋愛映画のようなストーリーをたどっていく。
なぜラースはそのような「創作」を行ったのか? それは、無意識のうちに彼自身がそれを望んでいるからだ。自分が作り上げた物語に、自分自身が抗っていく行為。すなわち、妄想から現実への帰還を望む心情の表れといえる。
本作と共通点も多い『エターナル・サンシャイン』を例に挙げて、考えてみよう。機械によって消されていく記憶を可視化し、脳内の恋人との逃避行を描いた『エターナル・サンシャイン』は、「消される」ことに抗う行為がエモーショナルなドラマを生み出している。脳内における無意識の意識化、と呼べばよいだろうか。思い出や記憶といった“倉庫”に仕舞われているものを意識下まで引っ張り出し、ごみ箱から遠ざける行動が描かれる。
『エターナル・サンシャイン』予告
『ラースと、その彼女』はその逆で、「消す」ことを推進する行為がドラマティックな感動を呼び起こす。こちらでは意識の無意識化が行われており、「本当はこうしたい」というラースの切望が、ビアンカとの関係性に影響を及ぼしていくのだ。構築されていく嘘の世界を、自ら破壊しようとする動き――。それは、「大きな赤ん坊」と呼ばれるラースの独り立ちの意思表示に他ならない。
そこに至るまでの「伏線」はいくつも配置されており、まずはラースが大事に持ち続けているブランケット。亡き母の手製というブランケットは、心理学の「ライナスの毛布(安心毛布)」といえるだろう。その後、ラースの母は彼を産んだ際に亡くなっていたことが明かされ、加えてラースが、ビアンカの「設定」に母の面影をいくつも投影していたことが示される。ビアンカは何もないところから出てきたのではなく、ラースの生い立ちと深く結びついていることが徐々に見えてくるのだ。
ビアンカの登場によって社交的になり、以前は絶対に行かなかった集まりにも参加するようになったラース。しかし、陽気になったはずの彼が負の感情を見せる場面がいくつかある。それは全て、マーゴが絡んでいる場での出来事だ。本人も気づいていないのだが、ラースはマーゴの前だと感情のコントロールをうまくできない。唯一、ビアンカという「魔法」が解けてしまう存在といえるだろう。これもまた、物語の行方を占う布石といえる。
劇中、最もメロディアスな楽曲が流れるシーンはどこか。「肌に触れられると痛い」と訴えるラースが、手を差し伸べる相手は誰か。ビアンカはなぜ、ラースのもとに現れたのか。ラースはなぜ、ビアンカを必要としたのか。ゆりかごのように優しい世界で、全ては繋がっている。これは、1人の男が愛を創作し、愛に愛され、愛を選び取る物語なのだ。
文: SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライターに。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」「FRIDAYデジタル」「Fan's Voice」「映画.com」等に寄稿。Twitter「syocinema」
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