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『ラースと、その彼女』「治さない」という優しさ。居場所を与える、“幸福な嘘”

『ラースと、その彼女』「治さない」という優しさ。居場所を与える、“幸福な嘘”


正論よりも、嘘を選ぶ「優しさ」



 『ラースと、その彼女』は妄想に取りつかれた男を主人公に据えた映画ではあるが、決して「病気」を描いた作品ではない。前述したとおり、他者の価値観の受容を説いた物語だ。ただ、そこに政治的・問題提起的な主張はなく、「これこそが善だ」というような押しつけがましさも皆無。じゃあ何があるのかといえば、「優しい世界」――ただそれだけだ。


 「本人にしか見えない(聞こえない)」という点で、『ラースと、その彼女』は「イマジナリーフレンド(空想上の友だち)もの」の発展形ともいえるが、ダグマのセリフ「彼女は本物で、実在している」によって、その部分における“甘え”は否定される。実体としてそこに存在している以上、ないことにはできない。あくまで、認識の差だということ。ラブドールと見るか、元宣教師のビアンカと見るか、の違いだけなのだ。


 さらに、冒頭の教会のシーンから愛の重要性が示され、年長者が「偏見は必要ない」と語る姿、アクション・フィギュアを大切にする同僚、クマのぬいぐるみを友人のように思っているマーゴなどの存在を通して、「生きがいは人によって違う」ことが示される。ラースが「普通」ではない状態になったにせよ、それはあくまで程度の違いであって、根本的に「異常」ではない。つまり、人はそれぞれに“個性”があって、それを認めてあげることが肝要だ――そんな慈しみのメッセージが、画面のあちこちから感じ取られる。




 劇中、ラースがビアンカに読み聞かせをするシーンでは、「ドン・キホーテ」が登場。妄想を信じ切った結果、勇猛果敢な英雄へと上り詰めた主人公と、最愛の存在ドルシネアの関係性は、ラースとビアンカにも合致する。『ラースと、その彼女』で描かれるのは胸躍る冒険譚ではなく、もっとささやかな恋愛だが、どちらも“日常”の捉え方について、1つの示唆を与えてくれる。心根ひとつで、日々はどこまでも劇的に色づいていくのだ。


 ラースを超えて周囲の人間にもビアンカの“声”が聞こえてくる、という演出も、心をほろほろとほぐしてくれる。ビアンカはブティックで働き始め、ボランティアにも通うようになり、美容院で髪を整え、友人が増えていく。ビアンカを独り占めしたいと思うラースが、町民から「彼女は一人前の女性なのよ!」と怒られるようにまでなる始末。なんと微笑ましい「理想郷」だろうか。そこにあるのは、親切を超えた“愛”だ。


 ラースを「治す」ためだけなら、ここまでする必要はない。ではなぜ町民たちが自ら進んでこの嘘に「乗る」のか。その答えはきっと、ただただ純粋にビアンカを好きになったからだ。彼女たちの中でも、もはやビアンカは空想でもラブドールでもなく、同じ町に暮らすいとおしい仲間なのだろう。そしてその「奇跡」を起こしたのは、何を隠そうラースの包容力なのだ。


 人とうまくコミュニケーションがとれず、本音を見せないラースは、哀しい気持ちを抱えた人物。ただ、彼は冒頭からずっと、人と向き合おうとしている。教会で子どものおもちゃを拾ってやり、重そうな造花を老婆の代わりに運び、身重な兄嫁を気遣っている。町民たちは皆、その姿をちゃんと見ていた。だからこそ、この状況が起こりうるのだ。ラースに対する町民の献身は、観客から観ても、説得力をもって受け入れられるはずだ。この映画が描いている「幸福な嘘」は、優しさの恩返しでもあるのかもしれない。



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