原作から映画化への困難な道のり
英国人のジョン・シュレシンジャーはBBCでのドキュメンタリー作りを経て映画界に入った監督で、『或る種の愛情』(62)や『ダーリング』(65)といった人間ドラマで評価された。60年代の英国はザ・ビートルズやミニスカートなどの登場で、若者文化の新しい波が生まれたが、『ダーリング』はこの時代を象徴する奔放な性格のモデルを主人公にしたドラマで、主演のジュリー・クリスティの新鮮な魅力もあって、時代を代表する一本となった(シュレシンジャーはオスカーの監督賞候補となり、クリスティは主演女優賞を受賞)。
この映画の評価を受け、次はアメリカを舞台にした題材を探していたシュレシンジャーは、画家の友人のすすめで『真夜中のカーボーイ』の小説を読み、映画化を考え始めた。まず、知り合いのプロデューサー、ジョー・ジャンニに声をかけたが、彼は同性愛や男娼などが登場する原作本に抵抗を感じたようだ。
しかし、あきらめきれないシュレシンジャーは、別のプロデューサー、ジェローム・ヘルマンに相談。ヘルマンは「ふたりの男たちの関係を描いたら、いい映画になる」と直感したという。「ヒットする映画にはならないだろうが、それでもぜひ作りたいと思った」とヘルマンは語っている(サイト“Cinephilia & Beyond”より)。ユナイテッド・アーティスツに話を持ち掛けたら、「予算内で収める」ということを条件に製作にGOサインを出した。
『真夜中のカーボーイ』(c)Photofest / Getty Images
脚本家はすんなりとは決まらなかった。最初に作家のゴア・ヴィダル(マイケル・サーン監督の『マイラ』(70)の原作者)に相談したら、映画の中に自分自身が書いた物語を入れたいと言い出したので、彼の起用をあきらめた。次に劇作家のジャック・ギルバーにシナリオを書かせたが、これはボツとなった。
そこで白羽の矢が立ったのが、ウォルド・ソルトだった。50年代のハリウッドの赤狩りでブラックリストに載り、その後は匿名でテレビなどのシナリオを書いていた。私生活では離婚も経験し、ニューヨークの安いホテルで暮らし、匿名のシナリオを書くことの虚しさをかみしめていた。当時50代だった彼は自分にはもう未来はないと考えていたという。
そこへやってきたのが、『真夜中のカーボーイ』の仕事だった。完成した脚本は製作者たちを喜ばせ、ソルトは、見事、アカデミー脚色賞に輝いた。この映画で主人公の故郷のガーフレンド、アニー役を演じたジェニファー・ソルト(ウォルドの娘)はそんな父親のことをこう振り返る――「あの時、父は不死鳥のように灰の中からよみがえったのよ」(この作品のBDインタビューより)。
『セルピコ』予告
その後の彼はアル・パチーノ主演の『セルピコ』(73)、ジョン・ヴォイト主演の『帰郷』(78)などの秀作も手がけ、ハリウッドの脚本家協会からローレル賞(功労賞)を贈られている。『真夜中のカーボーイ』は底辺の生活を送りながらも、ひそかな希望を秘めた主人公たちの物語だが、不遇だったソルトは主人公たちに自分を重ねながら執筆したのではないだろうか。