“社会性”を“娯楽性”で包む妙手
もう少しだけ、『新聞記者』が象徴する「社会性」「同時代性」「娯楽性」について言及したい。
その3点を成立させねばならない中で、『新聞記者』は一種の苦肉の策といえる、「狂歌」的なスタンスを貫いている。つまり、明言を避けたエンタメ化だ。観客にも、作り手にも「あのことだ」とわかるが、劇中で明言はしない。あくまで虚構の文脈で、現実を斬るということ。その確信的な変化球(しかも外角ぎりぎりを攻める勇気あるコース取り)が、観る者に衝撃を与え、「よくここまで描いた」と称賛を浴びたのだろう。
さきほど「狂歌的」と述べたが、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という江戸時代の句を目にしたことがあるだろうか。これは、魚を描いた句のように見せかけて、政治批判を混ぜたもの。御上にたてつけば粛清対象になりかねないなか、こういった形で想いを表すしかなかったのだ。
『新聞記者』(C)2019『新聞記者』フィルムパートナーズ
しかしこれは徐々に、創作のスタイルへと変化していく。『シェイプ・オブ・ウォーター』(17)のギレルモ・デル・トロ監督も「おとぎ話の形式をとった方が、社会的弱者のメッセージを伝えられる」と語っている。つまり、娯楽性で社会性をコーティングする方が、広く流布させることができ、逆説的に効果をもたらすのだ。
『新聞記者』は、「これはフィクションです」という体制を崩さない。こんなにも現実の事件を盛り込んでいるのに、だ。味付けも、物語の展開も、多くをエンタメの文脈で描いている。これは、「映画の力を信じている」、そして「観客を信じている」からこそだろう。
マスコミ用のプレス資料の中で、望月はオファーを快諾した理由をこう語っている。「プロデューサーと深くお話をしていく中で、昨今の政治やメディアに関する問題意識はもちろん、エンターテインメントに対する強い情熱を感じたんです。現在の状況としっかりリンクした内容を、誰もがハラハラできるフィクションとして表現する。それによって、今の権力とメディアの関係について、新聞メディアが伝えきれなかった幅広い層にも届けられるのではないかと感じました」と。
『新聞記者』(C)2019『新聞記者』フィルムパートナーズ
ここでいうプロデューサーとは、配給・製作会社スターサンズの設立者でもある河村光庸。『かぞくのくに』(12)、『二重生活』(16)、『あゝ、荒野』(17)、『愛しのアイリーン』(18)、『宮本から君へ』と、強烈な作品を次々と世に放つ同社の代表取締役だ。望月の著書に感銘を受け、映画への“変換”をアプローチしたという河村自身も「『これ、ヤバいですよ』『作ってはいけないんじゃないか』という同調圧力を感じつつの製作過程だった」とプレス資料内で語っており、やはりさまざまな枷を感じつつの製作だったようだ。
映画は、幅広い層にリーチできるメディアだ。そしてエンタメ性を強めれば、裾野はどこまでも広がる。ただそれと反比例して、伝えたいメッセージは薄まっていく。逆にメッセージを強めれば、大衆は離れていく。『新聞記者』はギリギリまで攻めた作品だが、娯楽性と社会性を成り立たせるための位置取りは困難を極めたことだろう。ではなぜ、本作は“成功”できたのだろうか?
その立役者となったのが、映像派の俊英・藤井道人監督である。