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『泣きたい私は猫をかぶる』童心で描かれた、真の「等身大」アニメーション

『泣きたい私は猫をかぶる』童心で描かれた、真の「等身大」アニメーション

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天真爛漫すぎる主人公に隠された、“痛み”からの逃避願望



 本作を構成する、少々変わった要素。それは、「心情描写」と「目線」だ。本稿ではその2つに焦点を絞って、考えていきたい。


 そもそもこの作品が、「猫をかぶる」というワードにかけた物語であることは明白だろう。本性を見せず、おとなしそうに見せることを指すことわざだが、『泣きたい私は猫をかぶる』では文字通り、ヒロインがお面をかぶって猫になってしまう。本音を隠したまま、猫へと変化するのだ。


 猫になったムゲは、誰からも好かれる可愛らしい子猫となり、日之出が唯一本音を話せる存在に。図らずも、学校ではクールな「猫をかぶっていた」彼の素顔を知ることになるのだった――。という流れ自体はスムーズなのだが、ここで気になるのは、元々のムゲの“キャラ付け”だ。はっきり言って、かなりエキセントリックな性格なのである。


 毎朝登校時には、日之出に「日之出サンライズ!」と叫んでヒップアタックをかまし、クラスメイトからは異常な存在として距離を置かれている。「ムゲ」というあだ名も、言動がぶっ飛んでいることから周囲が名付けた「無限大謎人間」の略称だ。愛称というより、蔑称に近い。




 その他にも、日之出を好きで好きでしょうがない様子がだだ洩れになっており、意地の悪い生徒からは馬鹿にされがち(彼女のやり返し方も強烈だ)。「恋に恋する中学生」という補正をかけたとしても、ムゲの行動理念は共感しやすいものではない。観る人によっては、少なからず違和感を覚えるのではないか。もちろんこの描写は、猫になった際のギャップを強めるものだとも考えられるのだが、それだけでは埋まらない“溝”のようなものが、感じられる。


 しかしその異物感は、物語が進むにつれ明らかになっていく。彼女の度が過ぎるほどの天真爛漫なふるまいは、小学生の時に経験した両親の離婚や、その際に周囲から腫れ物扱いされたり、或いはいじめられたりといった要素がキーになっているということ。自分から浮いた存在へと持っていくことによって、ある種の「自己防衛」を(本人も無意識のうちに)行っていたことが推察される。


 元々、ムゲが猫になるお面を手に入れたのは、自分たちを捨てて出ていったにもかかわらず、よりを戻そうとする身勝手な母親に耐えかねていた際に、お面屋の甘言にほだされてしまったからでもある。




 こういうバックボーンを観ていくと、彼女の日之出に対する恋慕の情は、ただ「好き」なだけではないのだ、という風に見えてくる。本作は序盤で「日之出と親友以外はかかしに見える」という演出が入っており、それが「恋は盲目」の状態を示しているのだが、序盤と後半では、このシーンに対する解釈が全く異なっているだろう。恋という感情にすがるような切実な叫び――妄執に近い狂気が、うっすらとにじんでいるのだ。


 端的に言えば、現実逃避の意味合いが周到に仕込まれている。両親の離婚や再婚相手との関係、周囲からの冷遇……それらすべての回避策として、恋は中学生には非常に有効な手段なのだ。


 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』ではクォーターのため孤立しがちな少女、『心が叫びたがってるんだ。』(15)では言葉を発せない女子高生といった異端の存在を描き続けてきた、岡田ならではの“痛み”が、まさに「猫をかぶった」姿で描かれている。



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