2020.06.18
中学生の「目線」で統一した、優しい世界
しかし、同時に本作で注目したいのは、徹頭徹尾「善意」で作られた作品であるということ。これが、先に挙げた「目線」につながってくる。
どういうことかというと、ムゲには両親の離婚や再婚、日之出には焼き物の職人である祖父の廃業(父親の不在?)など、シリアスな展開があるにせよ、全体的に重く、つらい描写がほぼないということだ。大人たちがもめる様子も映し出されるものの、どこか滑稽なものとして存在している。それはなぜか。この『泣きたい私は猫をかぶる』は、すべて少年少女の目線で描かれているからだ。
この「目線」は、ムゲが猫になることで強調される。猫の目線と人間の目線が入れ代わり立ち代わり描かれることで、日之出の輪郭も変異すれば、ムゲの周囲に対する受け取り方にも動きがみられる。猫の目で見た日之出は心優しく素直な人物で、人間の目で見た日之出は周囲に壁を作るようなタイプ。映像的にも目線の変化がキーとなっているが、それは物語の構造にも直結しているのだ。
『泣きたい私は猫をかぶる』(c) 2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
中学生の目線で、統一されているということ。スマートフォンは登場するが、ネットやSNSは登場しない。唯一、明確な悪意が覗くのは、ムゲの母親が、夫の再婚相手に送るメールだけだ。大人たちの歪んで荒んだ世界が、一瞬だけ垣間見えるが、そこにムゲはいない。
これは「敵」の描かれ方にも顕著で、お面屋との対決シーンも、根っからの悪党としては演出されず、どこか愛嬌のある存在として2人の目の前に立ちはだかる。盛り上がりという意味では、ほんわかした感じで進むのだが、この「おとなしさ」は、作品のトーンを示すうえでかなり有益だ。大人の感覚であれば突っ込みたくなる敵のゆるい計画や動機も、中学生の目線で、と考えると違和感がなくなる。本作は、どこを切っても「健全」なのだ。