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『行き止まりの世界に生まれて』観客と作品の新たな関係性を提示する新世代ドキュメンタリー

『行き止まりの世界に生まれて』観客と作品の新たな関係性を提示する新世代ドキュメンタリー


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被写体と撮影者の関係性が孕む危うさ



 ドキュメンタリーとは「ありのままの現実を映し出すもの」という認識が、世間には一定数あるかも知れない。しかしそれは、原理的に不可能だ。


 カメラを被写体に向け、その言動を捉えた映像はあくまで「カメラで撮られていることを意識した発言や行動」だし、作品として観客に提示されるものは、当然編集されたものである。編集によって、作者は意図する方向に観客を誘導しているわけで、それは「ありのままの現実」ではあり得ない(そもそも「ありのままの現実」という概念も幻だが)。


 時に撮影者が意図した映像を求めるあまり、被写体の行動に介入していくと、それは「フェイク」に堕す。しかし、「フェイク」かどうかを規定する境界線は曖昧だ。何故なら、被写体が撮影者の意図を忖度し「演じる」こともままあるし、先述のようにカメラを向けるという行為そのものが、被写体の行動に介入する構造を持つからだ。


 そういった意味でドキュメンタリーとは、「被写体と撮影者の関係性の中に立ち現れた現実を再構成する表現手法」と規定することもできそうだ。そしてもしかすると、それこそが本質ではないか、と思わせるような作品も多くある。



 『行き止まりの世界に生まれて』はまさにそのような作品なのだが、特筆すべきは被写体と撮影者の「距離感」が、今までに見たことがないと思えるほど、新鮮に感じられることだ。


 それはこの作品が、被写体を描くことを目的としながら、同時に全く違う狙いを持っているからだろう。



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