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『チェンジリング』クリント・イーストウッド映画における、糾弾される国家権力

(c)Photofest / Getty Images

『チェンジリング』クリント・イーストウッド映画における、糾弾される国家権力

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※本記事は物語の核心に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。


『チェンジリング』あらすじ

1928年のロサンゼルス。シングルマザーのクリスティンは、9歳の息子ウォルターと暮らしていた。ある日、彼女は同僚に泣きつかれて断り切れずに休日を返上して仕事へと向かう。暗くなって彼女が帰宅すると、家で一人で留守番をしているはずの息子は姿を消していた。それから5ヶ月後、ウォルターがイリノイ州で見つかったという朗報が入る。そして、ロス市警の大仰な演出によって報道陣も集まる中、再会の喜びを噛みしめながら列車で帰ってくる我が子を駅に出迎えるクリスティン。だが、列車から降りてきたのは、ウォルターとは別人の全く見知らぬ少年だった…。


Index


徹底した個人主義者が描く“警察機構”



 クリント・イーストウッド映画における警察機構は、しばしば個人の自由と尊厳を著しく傷つける存在として登場する。理由はとっても簡単で、彼が生粋のリバタリアンだからだ。


 リバタリアンとは何ぞや。辞書には「自由至上主義者。完全自由主義者」とある。要は、国はできるだけお節介をしない「小さな政府」でいてくれ!公助ではなく自助でやらせてくれ!ということ。イーストウッドはハリウッドには珍しい共和党支持者として知られているが、右とか左とかいうよりも、ただ徹底的に個人主義者なだけなのだ。彼のインタビューを抜粋してみよう。


 「たしかに、昔から共和党支持者だ。50年代、最初に選挙に行ったときは、アイゼンハワーに入れた。でも、私は党派は大嫌いだ。選挙で民主党に入れたこともある。財政や経済に関しては、わたしは保守派かもしれない。国が経済に介入することは賛成できない。(中略)だが、その一方で、個人の自由の保護にはとてもこだわりをもっている」

(『王になろうとした男 | ジョン ヒューストン』 宮本高晴訳 清流出版 より抜粋)


 必要最低限の治安維持活動を否定している訳ではないけれども、リバタリアンは国家権力が個人の生活に介入することを嫌う。警察が悪者的ポジションなのは、至極当然のことなのだ。


『ダーティハリー』予告


 いや、ちょっと待たんかい!イーストウッドの出世作『ダーティハリー』(71)は、思いっきり警察側の人間を主人公にしとるやないかい!と、目くじらをたてる諸兄もおられるかもしれない。だが思い出して欲しい。イーストウッド演じるハリー・キャラハン刑事は、杓子定規な警察機構のルールのため、自由に捜査することがままならない状態だった。


 行方不明の少女の居所を突き止めるため、キャラハンはミランダ警告(被疑者に対して行う警告)を無視して凶悪犯のスコルピオを逮捕。しかしそれが違法と見なされ、スコルピオは無罪放免されてしまう。屈辱に燃えるキャラハンは、残虐非道な犯人に制裁を下すため、警察のバッジを捨てて最後の闘いに挑む。「警察にとどまったままでは、正義の鉄槌を食らわすことはできない」というジレンマに苦しむのだ。


 近作の『リチャード・ジュエル』(19)も「警察=悪者」パターンを踏襲していたが、イーストウッド史上最も悪意を持って警察が描かれた作品は、アンジェリーナ・ジョリーが主演した『チェンジリング』(08)だろう。



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