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『ゲッタウェイ』サム・ペキンパーが手がける、壊れかけた夫婦のラブストーリー

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『ゲッタウェイ』サム・ペキンパーが手がける、壊れかけた夫婦のラブストーリー

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サム・ペキンパー=「男の映画」



 サム・ペキンパーを語る時、人は「男」という言葉ばかりを使いたがる。男の友情、男の美学を描く天才。無法者、荒くれ者の男たちに愛をそそぎ、ロマンチックに男の挽歌を奏でた映画作家。ペキンパーの本質は、女にはきっとわからない。「男の映画」だから、と言う人もいる。


 西部劇がジャンルとしての興隆に終焉を迎えつつあった1961年、『荒野のガンマン』で映画監督としてデビューしたサム・ペキンパーは、『ワイルドバンチ』(69)でハリウッドの西部劇にとどめを刺した。その後も、ダスティン・ホフマンが暴力に目覚める男を演じた『わらの犬』(71)、ボブ・ディランの出演も話題となった西部劇『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(73)、血と腐臭に満ちたウォーレン・オーツ主演の『ガルシアの首』(74)、そして唯一の戦争映画である『戦争のはらわた』(77)と、1984年に死去するまで数々の名作を作り上げた。


 ペキンパーの名には、いつもゴシップめいた言葉がまといつく。撮影現場での蛮行は数知れず、予算と撮影期間を超過しては、作品をつくるたびに製作会社と衝突し続けた厄介者。結婚・離婚をくり返し、酒とドラッグに溺れて死んだ狂気の人。暴力と血にまみれたバイオレンス映画の巨匠。こうした言葉が、ペキンパーを「男の映画」の象徴へと導いていく。



 ペキンパー映画が「男の映画」として祭り上げられていることと、それに対する疑問を投げかけた文章は、とっくの昔に書かれている。2001年に出版されたムック本『e/m books vol.10 サム・ペキンパー』(エスクァイア マガジン ジャパン)に収録された、映画評論家の石原郁子による「ペキンパーの女性たち」だ。


 この素晴らしい文章のなかで、彼女は、男が自分たちにしかわからない(と思える)映画を求める気持ちはわかる、と理解を示す。優越感に浸るため、女から身を隠す場所がほしいならそれもいい。でもだからといって「ペキンパー映画をその程度にしか使えないなら、ずいぶんつまらない」と言い放つ。


 「ペキンパーの女性たち」では、『ワイルドバンチ』をはじめ、彼の映画における女性たちが常に男の添え物にすぎなかったことを認めつつも、彼の映画が紋切り型を脱した複雑な女性像を作り出してきたとも指摘する。実際、ペキンパーの映画では、女たちはしばしば男に殴られ、蹴られ、レイプされる。なかでも淫乱女(と決めつけられた女)の扱われ方はあまりに手酷い。『ワイルドバンチ』がいかに傑作かを語ることができる一方で、ここでのメキシコ人娼婦たちの扱いについては、誰もが気まずく口を噤むだろう。



 それでも、ペキンパーが「闘う女」を見事に描き出したのは事実だ。『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(70)のヒルディ、『わらの犬』のエイミーの造形の素晴らしさ。そして何より『ゲッタウェイ』(72)でアリ・マッグローが演じたキャロルという女は、決して男のために用意された都合のよいヒロイン像にはおさまらない。彼女は銃を持ち、夫と同等に闘う女だ。誇り高く、自分の性的な魅力を存分に利用しながらも、男たちにそれを使う権利を手渡したりはしない。


 こうした奥行きをもった女性たちの例を挙げながら、「ペキンパーの女性たち」は次のように締めくくられる。ペキンパーの映画はたしかに女をおざなりにしがちだ。しかしそれでも「やはり彼は、彼なりに女性に公正だった」。




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