トキワ荘神話はいかにして生まれたか
トキワ荘の名前が、一般に知られるようになったのは、いつ頃からだろうか?
里中満智子(漫画家)は、各誌の連載漫画の欄外に記された作者ごとの住所に、トキワ荘という名が多く見られたことから、「みなさん一緒に暮らしているのだと子どもの頃から知っていた」(『驚きももの木20世紀 トキワ荘の時代〜マンガが青春だったころ』95年1月6日・朝日放送)と証言する。当時は芸能人も含めてファンレターの宛先として自宅住所が雑誌に書かれていたので、熱心な読者ならばトキワ荘の存在に気がついていたことになるが、広く認識されていたわけではないだろう。
評論家の四方田犬彦は、『女神の移譲 書物漂流記』(作品社)の中で、石ノ森章太郎(当時の表記は石森)が1965年に発表した『マンガ家入門』(秋田書店)が、「トキワ荘に集った若き漫画家たちの物語」を言及した最初ではないかと指摘している。
それから4年後の1969年は、〈トキワ荘神話〉が明確に始まりを告げた年である。というのも、この年、手塚治虫によって刊行された漫画専門誌『COM』で、かつての住人漫画家と、足繁く通った漫画家たちによる読み切り短編連作『トキワ荘物語』の連載が始まったからだ。
この年は、新聞紙上でも石ノ森が『仲間ーいまむかし』というエッセイで、トキワ荘時代について回想しており、そこには「仲間うちでは半ば伝説化されたこの『トキワ荘』を訪れたマンガ家のタマゴが、大家さんに『このアパートにはいれば必ず出世する』と自慢されたそうだ」(『朝日新聞』69年4月27日・朝刊)と記しており、こうした記述からも、〈仲間うち〉から外部へと伝説の伝聞が始まりつつあることがうかがえる。
1970年代後半から80年代初頭にかけて『週刊少年キング』で連載された藤子不二雄(当時表記)による半自伝的漫画『まんが道』でもトキワ荘が主要な舞台になり、その名はさらに広がりを見せていた。
『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd
そして1981年、満を持して〈トキワ荘ブーム〉が巻き起こった。まず、NHKが1年にわたって取材したドキュメンタリー『NHK特集/わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』(81年5月25日放送)が話題を呼び、続いてフジテレビでアニメーション『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』(81年10月3日放送)が、さらに『章説・トキワ荘・春』(石森章太郎 著/スコラ)、『トキワ荘青春日記』(藤子不二雄 著/光文社)が相次いで出版され、これらとは距離を置いたかたちではあるが、トキワ荘の漫画家たちと縁深い漫画雑誌『漫画少年』の全貌を記録した、寺田ヒロオ編集の『「漫画少年」史』(寺田ヒロオ 編著/湘南出版社)が刊行されたのもこの年である。
もちろん、これら全てが偶然の産物ではないだろう。メディアミックスが駆使されることによって、「失われた青春体験への共感 《ブームのトキワ荘神話》」(『朝日新聞』81年12月19日・夕刊)という記事が登場するまでの現象を巻き起こすことになったのだ。
しかし、なぜ1981年だったのか。この時点で手塚はもとより、藤子、石ノ森、赤塚が漫画家の枠を越えて高い知名度を誇っていたこともあるが、何よりもこの年の秋にトキワ荘が老朽化による取り壊しが決まっていたことが大きい。NHKのドキュメンタリー番組は、かつての住人と、出入りしていた漫画家たちが、取り壊しを惜しんで、トキワ荘へ集う場面から始まる。
実際の解体作業が行われたのは、諸事情で1年延期された1982年11月29日〜12月10日にかけてだが、トキワ荘神話を完成させるには、トキワ荘が現存し、それが間もなく消失するという郷愁をかきたてるタイミングでなければ成立しない。つまり、取り壊し予定だった1981年秋より早すぎても遅すぎてもいけない。まさに絶妙のタイミングで〈トキワ荘ブーム〉は仕掛けられたことになる。
それから5年後の1986年、「NHK銀河テレビ小説」で藤子の『まんが道』が連続ドラマとなり、翌年に制作された続編の『まんが道 青春編』は主舞台がトキワ荘となった。ここでさらにトキワ荘の名は広く認知されることになったが、筆者などは1981年の段階では幼いこともあってブームに乗り損ねたが、『まんが道』はドラマ化に合わせて原作漫画の愛蔵版が発売されたことから初めて手に取り、漫画と映像によってトキワ荘の存在が刷り込まれることになった。
こうしてドキュメンタリー、アニメーション、書籍、ドラマで取り上げられてきたトキワ荘だが、映画化はトキワ荘ブームから15年後の1996年に市川準監督によって撮られた『トキワ荘の青春』が作られるまで待たねばならなかった。