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『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(前編・企画編)

©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd 

『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(前編・企画編)

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選ばれし入居者たち



 手塚の向かいの部屋に暮らす寺田は、全国の漫画家志望者が、ひっきりなしに手塚を訪ねて来る姿を目にすることになる。そして面倒見が良いばかりに、留守にしがちの手塚に代わって若者たちの相手を引き受けることが少なくなかった。


 1954年初春に手塚の部屋を訪問した安孫子素雄こと藤子不二雄Aもその一人だった。手塚は急ぎの仕事を抱えており、寺田を紹介すると姿を消し、藤子Aは寺田と初対面を果たす。それから一週間にわたって居候を決め込み、やがて相棒の藤本弘こと藤子・F・不二雄と共に上京したら、寺田たちとグループを作るという話にまで発展したというから、よほど気が合ったのだろう。


 やがて上京した2人は、両国の3畳部屋での下宿暮らしを経て、1954年10月30日、手塚が出た後のトキワ荘14号室に入居する。加藤・手塚・寺田が居た時期をトキワ荘の〈第一期〉とするなら、藤子が入り、寺田が出る1957年6月20日までが〈第二期〉と言えるだろう。


 藤子に続いて、1955年9月2日に鈴木伸一(20号室)、1956年5月4日に石ノ森章太郎が住人となり、赤塚不二夫も石ノ森の部屋に同居するようになった(17号室)。同じく森安なおやも鈴木とルームシェアするようになり、トキワ荘の2階は7人もの漫画家たちがひしめくようになった。彼らはいずれも寺田が中心となって作った新漫画党のメンバーであり、合作と月に一度の会合を主体とした活動を行っていた。


   『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd 


 1954年7月9日に発足した新漫画党は、当初のメンバーは互いに面識のある者は少なく、『漫画少年』に寄稿する新人の中から、寺田が、気が合うと思われる作風の者に声をかけて集まった。藤子Aによると「おたがいナマの情熱をぶつけあいすぎた結果、それから一年あまりで解党」(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』)し、1956年に鈴木、石ノ森、つのだじろうを加えて第二次新漫画党が再結党され、遅れて赤塚不二夫、さらに後に園山俊二が参加した。


 新漫画党の活動と、トキワ荘に漫画家住人が増えていったのは、意図的にコントロールされたものでもあった。藤子たちによると、


「寺田ヒロオと僕たちは、トキワ荘を同じ志を持つ漫画青年たちで埋めつくそう、という野望を持っていて、鈴木伸一がその実現の第一号だった」(『文藝春秋』77年7月号)


 という。これは漫画家志望者なら誰でも歓迎という意味ではなく、彼らが才能を見込み、新漫画党に入党した者のみが入居できたという意味も含んでいる。というのも、トキワ荘へ入るにあたって障害になったのは、当時としては額が大きい3万円の敷金である。かんたんに捻出できた者はいない。藤子は手塚が敷金をそのまま残してくれたことで事なきを得たが、鈴木や石森は寺田が3万円を用立てたことで入居が可能になった。これは彼らを〈新漫画党=トキワ荘〉へ迎え入れたいという寺田の意志があったから可能になったものだ。


 当時の藤子Aの日記には、石ノ森が上京にあたって新漫画党への入党を希望していることが記されている。


「この際ということになり、寺さん、角田(つのだじろう)氏もスイセンする。とにかくこの二人を入れようと話す。今後は入党条件きびしくしようと話す」(『トキワ荘青春日記』)


 新漫画党の入党基準について寺田は、「全員の賛成が決まりで、こんな人はどうだろうと話が出た時に、誰かが反対したり、よく知らないからと消極的になれば、まあ今はやめておくかといった程度で、(略)要するに感じのよい漫画を描いて、仲良く付き合えそうな人を望んだのです」(『えすとりあ』季刊2号)と、緩やかなものであったかのように言うが、本当にそうだったのだろうか?


 後に漫画週刊誌時代が始まると、寺田は人気投票の順位を編集者からしつこく煽られ、さらに「漫画も雑誌もエゲツナクなる一方」(前掲書)であることに嫌気がさし、遂には連載を降りてしまう。時代は劇画が隆盛をほこり、児童漫画にも大きな影響が表れるようになっていた。良心的な漫画が必要と考える寺田にとっては許しがたかったのか、過剰な行動に出ることもあった。劇画で新風を巻き起こしていた、さいとう・たかおは、寺田から送られた手紙を記憶している。


 「突然手紙が来ましてね、そういう低俗なものを描くなって。もう延々と説教が書いてありました。5枚ぐらいの便箋で。ほいで後で自分の本送ってきましてね、これ見ろという感じ。一面識もないのに」(『まんが道大解剖』)


 この話を踏まえれば、新漫画党の入党条件が、緩いものとは言えなかったのではないかという気もしてくる。実際、藤子の2人が『トキワ荘青春日記』で、「入党は狭き門だったね。とにかく一人でも反対したら、入れなかったから」「希望者はずいぶん多かったものね」と話しているのは、実感なのではないだろうか。


 これを一概にセクト主義と非難できないのは、新漫画党出身者の大半が後に大成したのは、寺田の厳しい審美眼が反映していたに違いないからだ。〈トキワ荘神話〉は手塚治虫によって苗が植えられ、寺田ヒロオの献身的な世話によって育ち、大きな実りをもたらしたと言えるだろう。


   『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd


 寺田が退去した1957年以降、トキワ荘は〈第三期〉を迎える。ここからは石ノ森章太郎が中心人物となる。


 1958年に入居した水野英子(19号室)は、石ノ森と赤塚との合作のために、講談社の編集者・丸山昭が呼び寄せ、部屋も会社で借りるように算段をつけたもので、それまでの入居漫画家とは明らかに異なるルートで現れ、新漫画党にも加入していない。同時期には、赤塚、石ノ森から、トキワ荘に空き部屋があると聞かされて上京した高井研一郎が、「いざ行ってみると、ぼくが入るはずだった部屋には水野英子さんがすでに入っていた」(『漫画教室』)という行き違いも起きている。寺田の入居コントロールを離れたための混乱だろう。


 その後も、1958年に石ノ森、赤塚とは旧知のよこたとくおが、鈴木・森安が居た20号室へ、さらに仕事部屋として石ノ森が借りていた18号室にはアシスタントの山内ジョージらが1960〜1962年にかけて住んだ。1961年には藤子、赤塚、石ノ森、よこたが相次いで退去しており、アシスタントの部屋だけが最後まで残り、手塚治虫に始まる漫画荘の系譜は終焉を迎えた。


 こうして三期にわたるトキワ荘の歴史を眺めてみると、時代によってめまぐるしく入居者が変わり、映画化する場合、どの時期の誰をクローズアップするかによって、映画の雰囲気が大きく変わることが分かる。


 また、1955年の12月に藤子Aの姉が、食事の世話をするために藤子の2人が暮らす14号室で同居を開始したのを皮切りに、翌年早々に藤子Fが隣の15号室へ移ると同時に母親を呼び寄せ、藤子Aの母も1958年にトキワ荘での同居を始めている。やがて向かいの兎荘に藤子の2人は仕事部屋を一室借り、トキワ荘は家族と暮らす生活空間の比重が大きくなってゆく。


 こうした変化は、石ノ森と赤塚の場合も同様で、当初は石ノ森の部屋で居候生活を送っていた赤塚は、直ぐに隣の16号室が空いたことから独立し、やがて実母と同居するようになる。1960年には近くの新築アパート紫雲荘(現存)に仕事場を移しており、この時点で居住も紫雲荘へ移ったと見られている。


 こうした居住空間と仕事部屋の分離と、母親たちとの同居という側面を見ていくと、〈若き漫画家たちだけの共同生活〉は、ごくわずかな期間にすぎないことが分かる。


 『トキワ荘の青春』で市川準は、手塚と寺田がいた1954年から、寺田が退去する1957年までの時代を舞台とし、水野英子が入居していた時期(1958年)のエピソードを一部取り入れている。そして、これまでの作品では脇役だった寺田ヒロオを主人公にすることを思いつく。




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