トキワ荘に漫画家が暮らした理由
1952年12月に竣工したトキワ荘は、木造2階建てのモルタルアパート。トイレ、台所は各階で共同になっており、風呂はない。部屋数は22室、各部屋の広さは四畳半。家賃は竣工当時で3千円、電気ガス水道代に500円前後かかった。
現在から見ると、お世辞にも暮らしやすい環境には見えないが、トキワ荘が建ったのは、家賃の値上げを統制する地代家賃統制令が改正された2年後にあたり、これによって、ようやく新築アパートが増え始めた時期にあたる。
トキワ荘竣工から14年後の1966年時点でも、都内のアパート在住者の77%が一間の部屋に暮らし、そのうち四畳半に暮らすのが68%、六畳は27%だったというから、トキワ荘に暮らすことは、当時としては恵まれた環境にあったことがうかがえる。
しかし、なぜ若き漫画家たちが暮らすアパートがトキワ荘でなければならなかったのか? その原点は手塚治虫と、学童社が発行していた月刊少年誌『漫画少年』にあった。同誌に手塚は『ジャングル大帝』を、1950〜54年にかけて長期連載していたが、他にも『鉄腕アトム』などの連載を抱えて多忙に拍車がかかっていた。それまで東京での下宿先だった四谷にあった青果店の二階には、編集者が四六時中出入りするため、独居アパートへの転居を余儀なくされた。
『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd
『漫画少年』の編集者にアパート探しを依頼した手塚は、2つの条件を出した。それは、西武池袋沿線で学童社に近い場所――というものだった。これは手塚も参加していた東京児童漫画会のメンバーであるベテランの島田啓三をはじめ、盟友の福井英一ら多くの漫画家が西武池袋線沿線の住人だったことが理由である。学童社に近い場所を希望する理由は、同社の発行人で、戦前の『少年倶楽部』の名編集長として知られた加藤謙一を慕っていたからだ。手塚は東京駅に着くと、そのまま編集部へ直行したほどで、何かと学童社に出入りすることが多かった。
とはいえ、この2つの条件を合致させるのは至難の業である。というのも当時の学童社は飯田橋にあり、西武池袋線からは遠い。かろうじて条件を満たすのが、西武線池袋駅の隣駅にあたる椎名町駅から徒歩10分、山手線の目白駅まで徒歩20分強の場所に建つトキワ荘だった。タクシーを使うことが多かったと思われる手塚にとっては、トキワ荘は〈西武池袋沿線で学童社に近い場所〉だったに違いない。
手塚の記憶では、トキワ荘は『漫画少年』の編集者が見つけ、編集長の加藤宏泰が同行して下見を行ったという。宏泰は加藤謙一の次男である。父の講談社復帰(1952年)に伴い、産経新聞を退社して学童社へ入社していた。実は彼こそは漫画関係者のトキワ荘入居者第1号であり、新婚間もないこの時期をアパートで迎えていた。したがって、すでに入居していた宏泰がトキワ荘を手塚に勧めたのではないかと見られている。
この説に信憑性が高いのは、『漫画少年』の編集者として仕事をする一方で、宏泰が各誌との執筆順序の調整や手塚担当の編集者たちへの諸連絡を行うマネージャー的な存在になっていたからである。
1953年初頭、手塚はトキワ荘2階14号室の住人となった。もっとも、入居後も旅館でのカンヅメが多く、部屋には週に1、2回立ち寄る程度だったこともあり、「二、三年で出るつもりでいたから、ほとんど家財道具を買いこまず、ふとんと、必要最小限の日用品を揃えただけ」(『トキワ荘青春物語』)だったという。
事実、手塚がトキワ荘で暮らした時期に取材した『週刊朝日』(1954年4月1日号)では、部屋の様子がこう記されている。
「ガタピシしたアパートの、机に本棚だけといってよい、六畳一間の一室で、深夜ペンをとるこの“花形作家”」
これは関西の長者番付で漫画家としては初めて画家の部のトップ(年収217万円)になったことから行われた取材だったが、この書かれようが気に障ったようで、手塚は、「本意ではないが、なにか金目のものを置いておくに限るとさとった」(『ぼくはマンガ家』)という。そのためか1954年秋には宏泰と共にトキワ荘よりも広くて高級な雑司が谷の並木ハウスに転居し、そこでは大型テレビ、ピアノなどを揃え、体面を保つことに務めた。
1953年12月31日、トキワ荘に2人目の漫画家が入居した。寺田ヒロオである。『漫画少年』の読者投稿漫画欄の常連からプロになった寺田へトキワ荘を紹介したのも宏泰である。寺田は手塚の部屋の真向かいにあたる22号室へ入居した。
そして同じアパートに手塚、寺田、加藤が在住したことから生まれたとおぼしき企画もあった。『漫画少年』(54年3月号)から始まった『漫画つうしんぼ』は、多くの漫画家を輩出した同誌名物の読者投稿漫画欄をリニューアルしたもので、宏泰が投稿漫画の選出を行い、手塚が講評を書き、寺田がこの欄の構成と見本の漫画を描くというコンセプトだった。こうした企画は原稿を回すだけでも一苦労だが、同じアパートに3人が住んでいれば、いつでも受け渡しが出来る。
しかし、この連載は寺田によれば、「三回目位から、その全部を僕にまかされてしまって」(『えすとりあ』季刊2号)ということになったようで、「投稿家を失望させないために『漫画つうしんぼ』は、選評・漫画少年編集部、構成・寺田ヒロオとしていたが、全部私がやっていた」(『漫画少年史』)という。しかし、この連載によって、漫画家志望者から寺田は一目置かれるようになっていった。