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『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(前編・企画編)

©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd 

『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(前編・企画編)

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漫画家・寺田ヒロオの光と影



 トキワ荘に暮らした若き漫画家たちの誰もが志を遂げたわけではない。藤子、赤塚、石ノ森のような大成功を果たした者がいる一方で、森安なおやのようにトキワ荘を出た後は廃業し、アマチュアとして漫画を描き続けた者もいる。


 そうした〈成功と挫折〉という分かりやすい対比とは異なる位置に存在するのが寺田ヒロオである。『背番号0』『暗闇五段』といったヒット作を持ち、トキワ荘を出た後も、月刊誌から学年誌、週刊誌へと順調に描き進めて、1960年には『スポーツマン金太郎』で第1回講談社児童まんが賞を受賞している。 


 ところが、ある時期から自らの意志で漫画と距離を置き、遂にはほとんど描かなくなってしまう。1970年代前半に〈断筆した〉と言われることが多いが、厳密には週刊漫画誌での連載を1968年に終えた後は、月刊学年誌のみの連載となり、それも1973年が最後になったことから、第一線を退いたと取られることが多かっただけで、実際には1976年には『増刊・漫画アクション』に『市営球場殺人事件』や、単行本『プロ野球101のひみつ』『人気まんが家101のひみつ』を、1978年にも『子どもまんが教室』を描き下ろしている。しかし、それ以降は1981年に企画・編集を行った『「漫画少年」史』以外に目立った活動は見られない。


 「その時その時、一番描きたい物を描きたい様に描くしかないわけで、それが通用しなければ、黙ってるしかありません」(『えすとりあ』季刊2号)


 そう語る寺田は、断筆した理由を尋ねられるたびに否定し、『漫画少年』のような良心的な漫画雑誌があれば描く用意があると述べる。だが、漫画を描かなくなってからは、かつてのトキワ荘の仲間たちからも弱気になったと心配されており、「僕にはトキワ荘時代の楽しい思い出や、面白い事件なんて、ほとんど無いんですよ」(前掲書)といったネガティブな言動も少なくない。こんな発言もある。


 「『まんが道』だけ見た人は、テラさんという人物を買いかぶるでしょうね。僕が極普通にした事を、藤子くんがその時にとても嬉しかったと思っておれば、うんと感激した様にオーバーに書くでしょう。そうするとテラさんという人物が、凄く友情に厚く、思い遣りの深い人間だと思われるでしょう」(前掲書)


 そうまで言われてしまうと、返す言葉もない。しかし、考えてみれば、トキワ荘物語の大半は、功成り名遂げた者によって懐かしく回想される思い出なのである。貧しさや失意も、今となっては余裕を持って振り返ることができる輝かしい記憶なのだ。


©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd


 その意味では、『トキワ荘の青春』のメイキングとして製作された『映画日記』のインタビューで顔をしかめながら、「みんな悲惨だったですよ。若いから居れたんじゃないですか。何の当てもなくてね。(略)嫌な暗いトキワ荘の思い出ですよ……」と語る森安なおやの言葉も、従来のトキワ荘の物語から隠れていた影を浮き立たせる。


 市川準が主人公を寺田にした決め手は、関連資料を読み漁るなかで見つけた『トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道』(梶井純/筑摩書房、ちくま文庫)であった。寺田への長い時間をかけた取材を基に、それまでのトキワ荘関連本からは見えなかった光と影を描き出した出色の一冊だ。


 同書で、著者が寺田にトキワ荘時代に最も親しくしていた漫画家を尋ねると、新漫画党のメンバーではなく、棚下照生の名を挙げている。『モナリザお京』をはじめ、映画化された作品も多い無頼派の漫画家だが、寺田に上京を勧めるなど若い頃から親交があり、寺田のトキワ荘退去後も関係は続いた。


 棚下はトキワ荘という共同体に違和感を示す。『「漫画少年」史』に寄稿した文章には、トキワ荘で対面した漫画家たちについて、石ノ森を「ジャガイモみたいな奴」、藤子不二雄を「ヘチマとナスビ」と形容していることからも、好感を持っていないことが分かる。棚下は、トキワ荘の印象をこう語っている。


 「どれもこれも、漫画を描くのを不良行為と思っていないらしい雰囲気の発散がそこにあった」(前掲書)


 後に『トキワ荘の青春』が製作される際も、市川から取材を受けた棚下は、「トキワ荘を、類型にしないで下さい」と述べている。つまりはステレオタイプの青春群像ではなく、棚下が感じた違和感も含めた映画にしてくれという意味だろう。市川もその言葉を、「とても正しい意見だった」(『キネマ旬報』95年4月下旬号)と記している。


 同じように、トキワ荘へ違和感を感じた漫画家に、つげ義春がいる。工員時代に同じ環境で働きながら漫画を描く赤塚不二夫と知り合い、トキワ荘も訪ねている。そのときの印象を後年、つげはこう証言する。


「寺田さんは、まじめ一方という感じで、学校の先生みたいでしたね。印象では、ずいぶん無口で、内向的な人なんだなと思いました。まわりの連中は、ちょっと子どもっぽいなという感じをもちました。明るくさわぐというか、おちゃらけるというか、ちょっと違和感がありました」(『トキワ荘の時代』)


 棚下とつげがトキワ荘に感じた違和感は、『トキワ荘の時代』以外の関連書では、ほとんど言及されなかったものだ。市川準は『トキワ荘の青春』で本書を原案のひとつに選び、劇中にも棚下やつげを登場させたが、露骨にこうした違和感は描いていない。むしろ、その違和感を寺田に背負わせて、年長で頼りがいのある明朗快活な存在ではなく、翳りのある青年として描くことで、才気あふれる若き漫画家たちに気後れしているような姿を印象づける。つまり、後年の寺田から逆算して若き日を造形したとも言えるだけに、『まんが道』の印象のまま観ると、違和感を覚えることになる。


 しかし、寺田自身はトキワ荘を回想する際に前述のようなネガティブな発言だけをしていたわけではない。同じインタビューのなかで、こうも語っている。


 「不安と苦しみばかりじゃない。(中略)息が出来なくなる位笑って笑って、今では何がそんなにおかしかったのかまるで思い出せないのだけれど、とにかく素晴しい仲間がたくさんすぐ側に居てくれた。金が無くても金なんか使わなくても、結構楽しめたわけで、それらが僕の“心のトキワ荘”ね」(『えすとりあ』季刊2号)


 不安と苦しみと、仲間が直ぐ側に居る楽しさ――そうした屈折した感情を昭和30年代初頭の空気と木造アパートで描く――それが市川準の描こうとしたトキワ荘の物語だ。



<後編・撮影編>につづく



文: モルモット吉田

1978年生。映画評論家。別名義に吉田伊知郎。『映画秘宝』『キネマ旬報』『映画芸術』『シナリオ』等に執筆。著書に『映画評論・入門!』(洋泉社)、共著に『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)ほか



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『トキワ荘の青春 デジタルリマスター版』

2021年2月12日(金)よりテアトル新宿、シネリーブル池袋ほかにて全国順次公開

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