2021.04.20
国家を信ずる者ミッチと、国家を信じざる者フランク
なるほど、確かにフランクとミッチは、コインの裏と表、光と影のように、表裏一体の関係かもしれない。信じていた国家によって殺人マシーンに育て上げられ、その復讐のために大統領暗殺を企てるミッチは、フランクのオルター・エゴという見方もできるだろう。
だがこの両者には、大きな違いがある。そもそもイーストウッドは国家なんて信じちゃいない。過去のフィルモグラフィーにおいて、イーストウッドは彼の信ずる信念のもと行動し、彼の信ずる倫理観のもと正義を執行してきた。国家権力に身を置きながらも、イーストウッドの行動指針は極めて個人的なのである。
だから、フランクに(勝手に)共感を覚えるミッチに対し、フランクはミッチに対していっさい同情を示さない。フランクはケネディ大統領が暗殺されてしまったことに自責の念を感じているが、それはエージェントとしての職業意識でしかないのだ。
興味深いインタビューがある。
Q:『センチメンタル・アドベンチャー』や『バード』(88)といった、あなたのもっともパーソナルな作品では、主人公の敵は自分自身です。『トゥルー・クライム』(99)でもやはり同じですよね。
イーストウッド:葛藤は自分自身の中で起こっているんだ。主人公は、自分の中に棲みつく悪魔と格闘している。実人生でも、たいていそうだよな?
(『孤高の騎士クリント・イーストウッド』より抜粋)
うーん、まさにこれぞイーストウッド!彼にとって、あらゆる問題は外部ではなく内部(=個人)に宿るのである。映画のラスト、お互いの健闘を称えるミッチの留守番電話に対し、フランクは最後まで聞くこともせず、にべもなく部屋を去っていく。自らに潜む敵(=大統領を守れなかったという後悔)を駆逐した彼にとって、ミッチは単なる外部の存在でしかない。
国家を信ずる者ミッチと、国家を信じざる者フランク。この闘いは、イーストウッド的な系譜に確実に繋がっている。
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
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