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『ビーチ・バム まじめに不真面目』父親から受け継いだハーモニー・コリン・メソッド
2021.04.28
アラン・クラークの真実味
「シスターは空を飛べるのか?飛行機から飛び降り、無傷でいられることなど、ありえるのだろうか?それを笑い飛ばそうとする人々は、いったい何者なのだ?」
『ミスター・ロンリー』の神父=ヴェルナー・ヘルツォークのこの独白は、マイケル・ジャクソンやマリリン・モンローの物真似芸人たちが館に集まるという寓話としてのこの物語に真実味を与えていく。『ジュリアン』で父親役を演じたヴェルナー・ヘルツォークは、主人公ジュリアンを差し置いて、むしろ主役といっていいほど、狂気ともいえる睨みを息子たちと外の世界、何より画面に効かせていた。続く、『ミスター・ロンリー』の神父役でも、その存在は影の主役といっていいほど、ハーモニー・コリンの映画に揺さぶりを与え続けていた。
『ジュリアン』予告
フィクションにおける真実味。イギリスの映画作家アラン・クラークの作品が放つ有無を言わせない真実味に、「現実以上のリアル」を感じ、大いに魅了されたことをハーモニー・コリンは度々告白している。たとえば、アラン・クラークの『メイド・イン・ブリテン』(82)はスキンヘッドのネオナチ青年(ティム・ロス)が判決を聞きに向かうファーストショットから、その尋常ではない真実味を、ティム・ロスのいまにも暴力を振るいそうな殺気立った目と、流動的なカメラワークによって、画面に刻んでいく。
『ジュリアン』における、ただそこにいるだけで不穏な空気を画面に撒き散らすヴェルナー・ヘルツォークは、ポーカーフェイスの怒り、という意味でアラン・クラークの映画が放つ真実味の系譜を継承しているといえよう。ここで『ホーリー・モーターズ』で来日した際の、レオス・カラックスの言葉を引用したい。
「映画の美は、映画が純粋なフィクションではないという部分から出発しています。映画の美、映画の詩は、ドキュメンタリー的な部分、ドキュメントの部分から出発しています。この映画のドキュメンタリーの部分、それはドニ・ラヴァンがそこに存在しているというところです。」
『ビーチ・バム まじめに不真面目』(c)2019 BEACH BUM FILM HOLDINGS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
『ビーチ・バム』のムーンドッグは、猫をやさしい手つきで抱く冒頭から、既に天然の多幸感を画面に振りまいている。愉快なム-ンドッグが、ただそこにいるというだけで、たとえカメラが反対側を捉えてもその多幸感が彼を知る人たちに伝染していることが伝わってくる。『ジュリアン』のヴェルナー・ヘルツォークが放つ無表情の怒りが、どこかコミカルだったのとは対照的に、常に自分自身を笑わせたがるムーンドッグが画面に振りまく笑いには、どこか深い悲しみがこぼれ落ちている。
ハーモニー・コリンは、バスター・キートンを始めとする喜劇役者たちから学んだ相反する感情が、同時に俳優の身体から表出する、その肌理をドキュメントとして画面に刻んでいく。カメラを止めず、俳優にいつまでも演技を続けてもらうことに真実味を見出す、ドキュメンタリー的なメソッドによって。
『ビーチ・バム』は、ハーモニー・コリンがこれまで培ってきた探求の方法によって、ムーンドッグという放蕩詩人のドキュメントと、キーウェストという土地のドキュメントを美しく結実させている。ムーンドッグの煌めきとは、ただそこにいるだけでムーンドッグである煌めきなのだ。