不在の空間:イントロダクション
オットー・プレミンジャーは、夏のリヴェイラにある海の望める別荘を、風通しの良い舞台装置として利用する。開放的なバルコニーと屋内をセシルは頻繁に行き来する。ここでは俳優のダイナミックな移動をフレームに収めることを目的とした空間設計が成されている。この空間設計は、ミュージカルシーンで大いに活用される。本作のミュージカルシーンは、オットー・プレミンジャーが設計する、複雑で流麗なカメラワークと広大な舞台装置の幸福な結晶だ。
しかし、この幸福な舞台装置は、セシルの感情のスピードと同じように、あっという間に反転していく。むしろ反転してしまった世界の方が、オットー・プレミンジャーがこれまで描いてきた冷徹な世界をよく表している。
全員が去っていった屋敷の暗い廊下を手探りで歩く、『天使の顔』のヒロインの彷徨。あるいは『バニー・レークは行方不明』(65)で、行方不明になった小さな娘を探しながら階段を上がっていくヒロイン。オットー・プレミンジャーは、広大な空間、広大なフレームに不安神経症に陥ったヒロインを添える。その広い空間の中で、ヒロインは手探りに「不在」を確認していく。観客はその空間に恐怖を覚える。
『悲しみよこんにちは』(c)Photofest / Getty Images
『悲しみよこんにちは』では、世界は明るいまま反転する。闇の中で照らされたヒロインではなく、明るい陽光の下に照らされたヒロインであることが、ジーン・セバーグを特別にしている。『勝手にしやがれ』をはじめ、多くのゴダール作品のカメラマンを務めたラウール・クタールの言うように、ジーン・セバーグは「光を集める顔の骨格をしている」ということなのだろう。セシルは光の中で、無邪気に戯れる。他人の感情と。そして自分自身の感情さえも。
撮影現場に現れたフランソワーズ・サガンについて、ジーン・セバーグは気の毒に思ったのだという。常に取り巻きがいるので一人になることは許されないが、子猫のように歩き回って、いつも自分を必要としてくれる人を求めている、自分と同年代の女性作家。
フランソワーズ・サガンは、『悲しみよこんにちは』の自伝的要素について真っ向から否定しているが、撮影が開始される数年前から一緒にドライブに出掛けるなど、知己の関係を築いていたオットー・プレミンジャーは、彼女のことをよく観察していたのだろう。
また、スピード狂のフランソワーズ・サガンは、最初の事故を起こしてしまう。そして同じく、この作品はジーン・セバーグがこの後送ることになる、数奇な人生のイントロダクションとなる。
人生がフィクションを超えていく悲劇的な意味において、ジーン・セバーグとフランソワーズ・サガンは、本人の意思とは関係のない実人生の重なりを経てしまう。本作で歌われるジュリエット・グレコによるシャンソンは、図らずもこの特別な才能を持った二人の女性が抱えた名前のない感情へのレクイエムとして、二人のいなくなった現在の世界に響くだろう。私たちは彼女たちの不在を確かめることで、彼女たちの存在を感じるのだ。
「笑いのない私の微笑み/愛情のない私の口づけ/忘れられない人を思う時の/私のほろ苦いこの悲しみ」~Bonjour Tristesse~
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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