『恋する惑星』恋愛映画の傑作が切り取る、90年代前半の香港に流れた空気

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2021.09.21稲垣貴俊

即興が捉えた「時代の空気」

　こうして物語も撮影も即興的に進められていった『恋する惑星』だが、そんな中でも、カーウァイには守るべきものが二つあった。〈都市〉と〈人〉である。

　そもそも本作が生まれたきっかけは、カーウァイが『楽園の瑕』を中国本土で撮影して帰国した際、香港という土地への親しみを抱いたこと。そこからカーウァイは二つの物語を想起し、第1部は、自身にも縁が深いという重慶大厦が舞台となった。

　重慶大厦とは、香港・九龍半島の南端にある尖沙咀（チムサーチョイ）地区の繁華街に建つ複合ビル。本作ではインド人たちが全編に登場しているように、実際にインドからの移民が大勢暮らしている場所で、安宿が密集しているためバックパッカーも多い。カーウァイも「まるで香港じゃないみたい」だと言っているが、この場所をゲリラ撮影でありのままに、可能な限りリアルにスクリーンに刻み込むことは製作の大きなテーマだったのだろう。

　もちろん、カーウァイは重慶大厦だけでなく、「すべてのロケーションが大切だった」と断言している。「すべての場所が人間のように、（出来事を）静かに目撃している」とも述べているように、『恋する惑星』とは都市が主人公の物語でもあるのだ。街中や路上にはありとあらゆる人々が姿を見せ、偶然のニアミスも起こる。第1部で金髪の女が少女を誘拐した後、一人たたずむ場面では、虎のぬいぐるみを抱えたフェイが店から出てくるのである。カーウァイはこうも言っている。

　「人々の間にある“距離”に興味を持ちました。自然に生まれる、人々の接触の瞬間を捉えたくてこの映画を作ったんです。僕たちは自分の人生を急ぎすぎていて、物理的に一番近くにいる人のことを見過ごすことがある。だから数秒という時間、数センチという空間を扱いたかった。」

　1994年春の香港で、都市を主人公に、その場所を生きる人々を、数秒、数センチというスケールで描く。このコンセプトだけを大切に、カーウァイは集まった俳優陣から登場人物を考え、脚本を書き、ドキュメンタリーのように映画を撮っていったのだろう。結果的に、それは香港という都市が抱える切迫感や、時代の空気ともいうべきものを捉えることになった。結果的に、本作が「香港返還を示唆するポップでスタイリッシュなラブストーリー」となったのは半ば必然だったのかもしれない。

　“都市・香港の時代に向き合う”というカーウァイの傾向は、その後の『花様年華』（00）『2046』（04）でより先鋭化されていく。これら二つの作品で、カーウァイは香港の歴史に直接言及しながら、再び恋愛映画を撮ることになるのだ。ちなみに、どちらの映画にもトニー・レオンが出演しており、『2046』ではフェイ・ウォンもカーウァイ作品に復帰している。

［参考文献・資料］

『恋する惑星』DVD（特典映像）、アスミック・エースエンタテインメント

『恋する惑星』劇場プログラム、（株）プレノン・アッシュ、1995年

「フィルムメーカーズ［14］ウォン・カーウァイ」キネマ旬報社、2001年

ジミー・ンガイ、小川昌代（訳）「ウォン・カーウァイ」キネマ旬報社、1996年

吉川雅之、倉田徹（編著）「香港を知るための60章」明石書店、2016年

文：稲垣貴俊

ライター／編集／ドラマトゥルク。映画・ドラマ・コミック・演劇・美術など領域を横断して執筆活動を展開。映画『TENET テネット』『ジョーカー』など劇場用プログラム寄稿、ウェブメディア編集、展覧会図録編集、ラジオ出演ほか。主な舞台作品に、PARCOプロデュース『藪原検校』トライストーン・エンタテイメント『少女仮面』ドラマトゥルク、木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談―通し上演―』『三人吉三』『勧進帳』補綴助手、KUNIO『グリークス』文芸。

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