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『恐るべき子供たち』メルヴィル=コクトーによる鉱石の雪玉は、鈍い光を放ち続ける

©1950 Carole Weisweiller (all rights reserved) Restauration in 4K in 2020 . ReallyLikeFilms 

『恐るべき子供たち』メルヴィル=コクトーによる鉱石の雪玉は、鈍い光を放ち続ける

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『恐るべき子供たち』あらすじ

ある雪の日の夕方、中学生達の雪合戦が熱を帯びる中、ポールは密かに想いを寄せていた級友ダルジュロスの放った雪玉を胸に受け倒れてしまう。怪我を負ったポールは自宅で療養することになるが、そこは姉エリザベットとの秘密の子供部屋、他者の介入を許さない、死を孕んだ戯れと愛の世界だった。


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支配の視線



 「かりに演出が視線だとすれば、編集は心臓の鼓動である」 (ジャン=リュック・ゴダール)*1


 『恐るべき子供たち』(50)はハンドドラムを叩く音から始まる。あたかもこれから始まるショウの開幕を告げるかのようなドラムの連打に導かれ、かの有名な広場での雪合戦のシーンに導かれる。バカ騒ぎで幕が開けるこの冒頭シーンは、本作のクランクイン直前まで撮影が行われていたという、ジャン・コクトー監督作品『オルフェ』(50)の冒頭のバカ騒ぎ、そして何より同じくジャン・コクトーによる短編『詩人の血』(32)の雪合戦のシーンと符合している。


 子供たちのバカ騒ぎが放つ永遠の瑞々しさを始め、メルヴィル=コクトーによる本作は、後のヌーヴェルヴァーグに天啓を与えた。そしてジャン・コクトーの放ったイメージは、『ホーリー・モーターズ』(12)の冒頭で『詩人の血』の「鍵穴」を参照したレオス・カラックスに至るまで、今日の映画に継承され続けている。


『恐るべき子供たち』予告


 『恐るべき子供たち』が特異な作品なのは、原作者であるジャン・コクトーのイメージと、監督を務めたジャン=ピエール・メルヴィルのイメージが、互いに拮抗することで奇跡的に両者のハイブリットな作品として創出されているところだ。既に長編第一作『海の沈黙』(49)で、硬質な詩ともいえる作品を手掛けたジャン=ピエール・メルヴィルと撮影監督のアンリ・ドカエのコンビは、ジャン・コクトーの夢魔に対して徹底した客観性を保っている。


 それは雪合戦のシーンにおける高いところに立つダルジュロス(ルネー・コジマ)と地上の子供たちという、高低差を活かした美しい俯瞰のパンニング撮影から既に読み取れる。ダルジュロスという汚れた手をした残酷な神が支配する俯瞰の視点。ダルジュロスが石の入った雪玉をポール(エドゥアール・デルミット)の胸に命中させる以前に、ダルジュロスによるポールへの支配は、この短いショット=視線の内に既に始まっていたのだ。


 胸に命中した雪玉に倒れたポールは、友人ジェラール(ジャック・ベルナール)に抱きしめられながら病院へ運ばれる。二人が乗る車中の窓からは、外の景色が雪と霜で曇って見えない。意識を失いかけているポールと、閉ざされた空間。一方、校長室に呼び出されたダルジュロスは、校長に危害を加え、退学処分を食らってしまう。バカ騒ぎが放つ刹那の感情そのものであるかのように、ダルジュロスはポールの視界から、あっという間に消えてしまう。崇拝ともいえよう不在による支配が始まる。


 そしてダルジュロスを失ったポールには、姉エリザベット(ニコール・ステファーヌ)による二重の支配が待っている。姉弟だけが知っている秘密の儀式であるかのように顔を寄せ合うエリザベットとポール。二人の顔は向き合わせにはならず、その視線は正面の何もない空間を遠くに射抜いている。





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