女性の姿を正当に描いた「女性映画」
男(夫)に心理的な虐待を受ける女(妻)の物語は、これまでさまざまな形で映画に描かれてきた。そのなかでも『ガス燈』がいまだ名作と謳われるのは、ある殺人をめぐる謎を解いていく秀逸なミステリーのなかで、外からは見えない家庭内の虐待のありようを、これほどわかりやすくていねいに描いた作品はないからだ。また、本作はフェミニズム的文脈からもたしかな評価を得ている。『レベッカ』や『眠りの館』がそうだったように、精神的に追い詰められたヒロインの多くは、愛する男性の登場によって救いだされ、本当の幸福を得ることが多い。その点、『ガス燈』のポーラは必ずしも男性に救い出されるか弱き女性ではない。
もちろん物語だけを見れば、ポーラは、殺された叔母の崇拝者であったキャメロン警部によって救い出され、最後は二人が恋に落ちると暗に示されて幕を閉じる。だが、実際に映画を見ると、ジョゼフ・コットン演じるキャメロンの存在感はあまりにも希薄だし、二人がベランダで見つめ合うラストシーンは、とってつけたようにしか思えない。
『ガス燈』(c)Photofest / Getty Images
本当の意味でのラストシーンは、ポーラがグレゴリーの洗脳から目覚めた場面だろう。すべての真相が明かされ、グレゴリーが捕まったあと、彼女は自分と夫を二人きりにさせてほしいと話す。わざわざ救世主であるキャメロンを追い出してまで、彼女は何をしようとしているのか。二人になった途端、自分たちの間にはまだ愛があるはずだ、どうか自分を逃がしてほしいと頼み込むグレゴリーに、ポーラは当初ぼんやりとした表情を浮かべてみせる。だが言葉を交わすうち徐々に彼女の表情が変化する。彼女は、自分がされた虐待の内容をふり返り、自分自身の言葉で加害者に怒りをぶつけることに成功する。もはや自分たちとの間には何の関係も思い入れもないと彼女はきっぱり言い放つ。この力強い演説で、映画は本当の意味で幕を閉じるのだ。
この映画が今も古びない理由は、女性がただ恐れ慄く姿だけでなく、自分の足で再び立ち上がれる姿をも描いたことにある。それは、ロマンティックコメディやメロドラマの形式のなかで、つねに確固とした意思を持つ女性を描いてきたジョージ・キューカーだからこそできたことだ。
【参考文献】
ギャビン・ランバート、ロバート・トラクテンバーグ「ジョージ・キューカー、映画を語る」宮本高晴訳、2016年、国書刊行会
イングリッド・バーグマン、アラン・バージェス「イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー」永井淳訳、1982年、新潮社
文:月永理絵
映画ライター、編集者。雑誌『映画横丁』編集人。『朝日新聞』『メトロポリターナ』『週刊文春』『i-D JAPAN』等で映画評やコラム、取材記事を執筆。〈映画酒場編集室〉名義で書籍、映画パンフレットの編集も手がける。WEB番組「活弁シネマ倶楽部」でMCを担当中。 eigasakaba.net
(c)Photofest / Getty Images