自伝をフィクションとして作り直す
舞台になっているのは1969年の北アイルランド・ベルファストである。映画の冒頭、主人公の少年バディ(ジュード・ヒル)は外で無邪気に遊んでいるが、その時、不思議な轟音が通りに鳴り響き、あたりのものが吹き飛んでしまう。マ(母、カトリーナ・バルフ)はあわてて息子を家に連れ戻し、机の下に避難させる。さらなる轟音と共にまわりが破壊され、騒ぎがおさまって外に出ると、あたりにはがれきが散らばっている。それはベルファストにおけるカトリックとプロテスタント紛争の始まりでもあった。この日を境に状況は悪化し、通りは一触即発の状態。夜は自警団が周囲をパトロールし、通りにはバリケードが築かれている。子供たちがいたストリートの風景がまったく別のものになってしまう。
バディは9歳という設定で、かつてベルファストに住んでいたブラナー少年も同じ体験をしたという。家の中に爆弾が飛んでくる場面はすごく迫力があり、少年の恐怖をこちらも感じとることができる。ただ、けっして社会派の映画ではなく、軸になっているのは家族の物語。こうした街の変化を通じて、外の世界にめざめた少年が、どう家族の決断に向き合っていったのか? すべてが9歳の少年目線で貫かれる。
『ベルファスト』Ⓒ2021 Focus Features, LLC.
映画の中でパ(父、ジェイミー・ドーナン)は海の向こうのロンドンに出稼ぎに行っていて、時々家に戻ってくる。家を守るのはマの役割で、バディや兄をひとりで育てている。パはちょっと気が弱いところがあるがハンサムな男。気丈なマはダンスが大好きで、スラリとしていて丈の短いスカートやスリムなパンツも似合う。気性が激しいところもあり、パとケンカをすると、皿を割ることもある。バディは祖父(ポップ、キアラン・ハインズ)や祖母(グラニー、ジュディ・デンチ)も大好きで、3人でとりとめもない会話にふけることもー。パは紛争が激化した故郷のベルファストを出て、別の街で暮らすことを家族に提案する。
ブラナー一家の当時の経験は、すでに彼が89年に出版した自伝「私のはじまり ケネス・ブラナー自伝」(日本では白水社より93年刊行、喜志哲雄訳)に書かれていて、バディと同じような日々をブラナー自身も送ってきたことが分かる。教会で聖職者に「人生はふたつの道(天国と地獄)に分かれている」と語られた時の恐怖、初めての万引きの話、初恋の少女のことなど、映画でも描かれたことがすでに40年以上前に出版された本に登場している。父親は「いい男」で、母は「ダンス好き」、「ポップやグラニーが大好きだったこと」という点も映画と同じだ。ただ、本の中ではただのエピソードでしかなかった事柄に、フィクションも加えながら物語性を持たせたのが今回の映画版だ。
映画では1969年が舞台となっていて、劇中でも描かれているように、この年はアメリカのアポロ11号の「月面着陸」のニュースが世界をかけめぐり、国内ではヴェトナム反戦運動や公民権運動が盛り上がりを見せ、世界各地で学生運動も起きた。そんな「変革」の時代にあって、アイルランドは宗教の対立をめぐって紛争が激化。世界の転換点だった69年に時代設定することで、この映画の“家族の新たな旅立ち”というテーマにも説得力が生まれている。また、紛争の時代を舞台にすることで、人種対立や戦争などが問題になっている現代に通じる視点も感じられ、ただのノスタルジーで終わっていないところもいい。