2022.04.07
何度も“終わったバンド”が、今もここにいる
次にスパークスの音楽性の変遷を、本編中で検証されるエピソードから拾ってみよう。彼らの音楽を“ヘンテコ”と語るファースト・アルバムのプロデューサーにしてポップ・ミュージックの巨匠トッド・ラングレンは、スパークスのこの後の歩みを“進化そのもの”と評した。それが花開くのは、1974年に渡英してレコーディングした3枚目のアルバム「キモノ・マイ・ハウス」。同アルバムからシングルカットされた”ディス・タウン”は当時流行のグラムロックにも通じるイメージによってヨーロッパでヒットを飛ばす。
しかし、メイル兄弟は売れることに興味がなかった。自分たちのやりたいようにアルバムを作り続け、売れなくなってレコード会社から契約を切られる。彼らが次にチャートに戻って来たのは1979年の「No.1イン・ヘブン」。映画『フラッシュダンス』などの音楽で知られるプロデューサー、ジョルジオ・モロダーと組み、シンセサイザーのサウンドを投入したこのアルバムはポップ・ミュージックに革命をもたらした。シングルカットされた“ No.1ソング・イン・ヘブン”はイギリスでヒットを飛ばすが、エレクトロ・ポップ~テクノの元祖とされるこの曲の影響力の大きさは本編中で多くのミュージシャンがコメントを残しているので、ぜひ注目して欲しい。
『スパークス・ブラザーズ』© 2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED
当時5歳だったエドガー・ライトも、英国の音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で、この曲をプレイするスパークスに遭遇し、衝撃を受けたという。やがて彼は大人になり、スパークスのキャリアそのものに衝撃を受けることになる。80年代には本国アメリカでも“クールにキ・メ・テ”がヒットを飛ばすが、その後が続かず表舞台から消える。しかしユーロディスコ調の1994年のアルバム「官能の饗宴」がヨーロッパでヒットを飛ばしてまたまた脚光を浴びる。人気者になったと思ったら消えて、終わったバンドと思っていたら、復活する。これを繰り返して50年も続けてきたバンドが、他にいるだろうか?
映画監督として大成したライトはLAでスパークスのコンサートを見た後、彼らに申し出た。以下はラッセルの述懐だ。「“これほどオーディエンスに支持されているのに、誰もあなたたちのドキュメンタリー映画を作ってないじゃないか! それを作るのは僕の任務だ”とエドガーに言われてね(苦笑)。スパークスの名をもっと広めたいと言ってくれた。有難いと思ったよ。消えたと思われても、立ち上がって、商業的な成功や失敗にかかわらず、また前に進んでいく。そういうポップグループは他にいない。エドガーは僕らのことを、そう見ていたんだ」