究極のハッピーエンド
『メランコリア』には、脳裏に焼きつく強烈なビジュアルが満載だが、特に印象深いのは、ブーケを持って小川に浮かぶジャスティンの姿だろう。この幻想的なイメージは、ラファエル前派を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレーが、1852年に発表した代表作「オフィーリア」から着想を得ている。言わずもがな、オフィーリアはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」の登場人物。相次ぐ不幸で錯乱状態に陥った彼女は、柳から川に落ちても事の重大さに気づかず、古い小唄を口ずさみながらゆっくり水の底へと沈んでいった。
かつてフロイトは、死へ向かおうとする欲動をタナトス、もしくはデストルドーという言葉で定義した。ジャスティンもオフィーリアも死の欲動に取り憑かれ、蝕まれるように奈落していく。だが孤独に死を迎えるオフィーリアとは異なり、ジャスティンは全人類と共に死を共有する。それは彼女にとって“救済”なのだ。
第一章「ジャスティン」では、彼女の盛大な結婚式が描かれる。だがジャスティンは自分自身が花嫁であるにも関わらず、結婚式という儀式に居場所を見出すことができない。社会に適応できない者にとって、社会規範に則ったシステムは空虚以外の何物でもない。姉のクレアが彼女に優しく接すれば接するほど、ジャスティンは自分が築き上げたインナー・ワールドへと逃避していく。
『メランコリア』(c)Photofest / Getty Images
そして第二章「クレア」では、巨大惑星メランコリアとの衝突が描かれる。蒼色に輝く惑星がすっぽりと地球を呑み込み、生きとし生けるものを全て灰燼に帰す、人類全ての合同葬儀。半狂乱となるクレアと対照的に、ジャスティンは澄み切った表情で最期の時を迎え入れる。『メランコリア』は(ジャスティンにとって)空虚な結婚式で始まり、(ジャスティンだけが)救済される葬儀で終わる物語なのだ。
もちろん、そんなの傲慢だ。身勝手だ。でも、とてつもなく痛快だ。『メランコリア』は、何よりもまずラース・フォン・トリアー自身が治癒されるべく作られた映画なのである。
「この映画は、甘いクリームの上にクリームを重ねたような映画なんだ」
彼にとって、本作のクライマックスは最高のハッピーエンドなのだろう。
(*1)IndieWire
(*2)the Guardian
(*3)「ユリイカ ラース・フォン・トリアー特集号」(青土社)
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
(c)Photofest / Getty Images