2023.02.25
不快感の共有を生む、「長回し」と「蒸し返し」
リューベン・オストルンド監督の作品の共通点は、物語の基本構造に加えてスローなテンポ感もそう。『フレンチアルプスで起きたこと』は118分と一般的な分数だが、『ザ・スクエア 思いやりの聖域』は151分、『逆転のトライアングル』は147分となかなかのボリューム。しかも、これが「意地悪」と評される理由のひとつでもあろうが――長回しの頻度が高い。しかもこの長回し、動きはほとんどないしセリフ量も多くはない。彼が長回しで描き出すのは、「気まずさ」や「イラつき」、「嫌悪感」だ。
例えば『フレンチアルプスで起きたこと』では、全ての原因となる雪崩遭遇シーン。子どもが怯えているのに「大丈夫。プロが起こした人口雪崩だから」と高をくくっていた父親が、眼前に押し寄せてきた雪崩を観てパニックを起こし我先に逃げ出すシーンがワンカットで描かれる。その後、関係が悪化した夫婦の歯磨きシーンも延々と見せる。ふたりの間に会話はなく、動きも少ない。その代わり我々観客に叩きつけられるのは、いたたまれないほどの殺伐とした空気感だ。さらに言えば、冒頭の写真撮影シーンも長回しで、様々なポーズをさせられる家族に付き合わされる(ここはそのまま『逆転のトライアングル』の冒頭の撮影シーンに重なる)。
長回しの用途のひとつは、観客の実時間と劇中時間をシンクロさせることで没入感を生み出すことにあるが、オストルンド監督の場合はそれを思いっきり「不快感の共有」の方向に引っ張っているのだ。
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』予告
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』では、猿の真似をするパフォーマンスがそれにあたる。実際にはカットを割っているのだが、一つひとつのシーンが異常に長い。かつ、パフォーマーの行動が予測不能のため「笑っている」状態が「笑えなく」なり、ただただ苦痛へと変わる。本作が「胸糞映画」と評されるゆえんのひとつだが、この異常なまでの“張り付き”が観客の精神をコントロールしているという点では、実に効果的だ。
長回しではないが、実際に同じような効果を生み出しているのが「蒸し返し」。『フレンチアルプスで起きたこと』では妻が何回も「あなたは逃げた」と会話の中で蒸し返し、夫を執拗に追い詰めていく。夫は夫で素直に認めないため、ふたりの諍いは周囲を巻き込み泥沼化してしまう。『逆転のトライアングル』ではカップル間の「お会計どっちが払うか」問題が丸々1章分描かれ、一旦鎮火したと思ったらまた再開し――となかなか終わらない。この2作に共通するのは、傷ついた側が納得できない限り終わらないというどうしようもなさ。しかし興味深いのは、そこに無理やり感が伴わないことだ。それはなぜか。我々自身に思い至るフシがあるからだ。