2023.02.25
当事者性をもたらす、人間観察と実体験
前述した『フレンチアルプスで起きたこと』は夫婦、『逆転のトライアングル』は恋人間の衝突が描かれる。このように近しい関係だからこそ起こりうる「気持ち」に左右されてしまう非効率なやり取りは、個々人において「よくある」ものではないか。生活や人生を共にするうえで、我々は無意識的にパートナーに「対等」を求めるもの。気持ちなのかお金なのか時間なのか、とにかく費やした分の見返りを欲しがってしまうのが人情だろう。たとえば子育てにおいてパートナーの協力が足りていない、思いやりがないという悩みであったり、恋愛において「これだけ愛してるんだから愛してほしい」という主張は、その代表例だ。
「蒸し返す」という行為はその内容が最重要なのではなく、「自分はこれだけ傷ついたからこそ相手も責め苦を負うべき」という心理が働いているもの。そうした意味で「許せない限り終わらない」のだが、『フレンチアルプスで起きたこと』においても『逆転のトライアングル』においても、観客側が「自分もそう思うし、そうする」と思えてしまう“生活感”がしっかりと宿っているのは、オストルンド監督の慧眼が故だろう。
『逆転のトライアングル』Fredrik Wenzel © Plattform Produktion
家族と旅行に行って、何か危ない目に遭いかけたとする。そんなときにパートナーが子どもを置いて一目散に逃げだしたら、許すことができるだろうか? 自分より高収入の恋人と食事に行き、ずっとスマホをいじっているくせにお会計のときだけ「じゃあよろしく」的な態度を取られたら、すんなり受け入れられるだろうか? 『フレンチアルプスで起きたこと』も『逆転のトライアングル』も、私たちの日常で起こりそう/実際に経験した事柄が物語のベースになっている。オストルンド監督はこうした不快感と共感を巧みに突いてくるのだ。
事実、オストルンド監督は実体験を注入する書き手であり、『逆転のトライアングル』の冒頭で描かれる「どっちが支払うか」口論は、彼と妻のシーナが付き合い始めだったとき、カンヌ国際映画祭で起こった“事件”に着想を得たのだという。なお、彼女はファッション・フォトグラファーであり、男性モデルと女性モデルの収入格差(男性は女性の約3分の1)等々、脚本制作におけるアドバイザー的役割も果たしたという。
人間観察と実体験を混ぜ込み、「不快だがわかってしまう」「意地悪なのに共感できる」といった相反する感情を観客に呼び起こす鬼才、リューベン・オストルンド。彼は自身の作風を「映画を観客に向けた鏡にすること」とも語っており、「当事者性」は彼の創作におけるコア(核)の部分といえるだろう。ここが人間くささへとつながり、冷徹なハネケ監督と比較した際の“体温”をもたらしているようにも感じられる。