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『こわれゆく女』人物の内面に入り込むカサヴェテス映画の強さ

(c)1974 Faces International Films,Inc.

『こわれゆく女』人物の内面に入り込むカサヴェテス映画の強さ

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ニューヨーク派の作家たちへの影響



 興味深いのは、前述の『アリスの恋』の監督はマーティン・スコセッシだったこと。スコセッシはカサヴェテスの弟子的な立ち位置の監督で、『ミニー&モスコウィッツ』(71)ではアシスタント・サウンド・エディターも担当。スコセッシがロジャー・コーマン製作で『明日に処刑を…』(72)を撮った後に、カサヴェテスはスコセッシに商業主義の映画ではなく、もっと建設的な作品を作るようにアドバイスし、その結果、スコセッシの最初の傑作『ミーン・ストリート』(73)が生まれた、という経緯もあった。


 カサヴェテスは“インディペンデント映画の父”と称されることが多いが、正確にいえば、“ニューヨーク・インディペンデント映画の父”という立ち位置である。彼の映画がひとつのきっかけとなり、ニューヨークを中心とした東海岸で、ハリウッド映画とは異なる<ニューヨーク映画>の流れが60年前後に生まれた。そんな彼のスピリットを継いでいるのがスコセッシやウディ・アレンといった監督だ。スコセッシの『アリスの恋』は、彼の映画としては一見、正統派のハリウッド映画に思えるが、それでも(たとえば、ハーヴェイ・カイテル演じる男が狂ったようにアリスのところにのりこんでくる場面など)どこか掟破りの感情表現が入っていて、そのあたりはカサヴェテス映画を思わせる。


 ウディ・アレンはジーナ・ローランズを使って『私の中のもうひとりの私』(88)を撮っているが、これはもう、まんま『オープニング・ナイト』の焼き直し(パロディ?)ともいえる内容になっている。老いの影におびえる中年女性が自身の人生を見つめ直す物語で、アレン版の原題は『アナザー・ウーマン』だが、『オープニング・ナイト』の中で女優役のローランズが演じる舞台劇のタイトルは「セカンド・ウーマン」。「30歳や40歳の時は平気だったけれど、50歳になった時、私は心のバランスを崩してしまった」といった内容の『私の中のもうひとりの私』の冒頭ナレーションは、明らかに『オープニング・ナイト』に出てくるセリフをヒントにしている



『こわれゆく女』(c)1974 Faces International Films,Inc.


 その後のニューヨーク派監督でカサヴェテス映画をリスペクトしていることで知られているのがジム・ジャームッシュで、ローランズを『ナイト・オン・ザ・プラネット』(91)の芸能エージェント役で起用している。また、ジャームッシュと同じ80年代に登場したニューヨーク生まれの監督、ジョン・セイルズも、また、カサヴェテスをリスペクトしている。


 50年代後半に登場したカサヴェテスは、70〜80年代のスコセッシやアレン、さらに80〜90年代のジャームッシュにも影響を及ぼしたということだ。


 日本ではヨーロッパ系シネアスト経由で語られることが多く、ついつい忘れられがちだが、実はカサヴェテスは<ニューヨーク派>の監督の原点なのだ。


 この点に関して、カサヴェテス映画の製作者として知られるサム・ショウが興味深いコメントを残している。(※実は筆者は93年に日本で<カサヴェテス・コレクション>という映画祭が行われた時、記事を書くためにサム・ショウと郵便やファックスで複数のやり取りを経験した。その時、ショウは日本では紹介されていないカサヴェテスの多くの資料を送ってくれた。そんな中にジャームッシュとカサヴェテスを比較したこんな発言がある)


「カサヴェテスとジャームッシュは自由な精神の持ち主という共通点があるが、ジャームッシュにはゴダールをはじめとするヨーロッパの作家の影響が見て取れる。でも、カサヴェテスはヨーロッパ的な影響をまぬがれている。彼は極めてアメリカ的な監督だ」


 こうした発言からも分かるようにカサヴェテスは生粋のアメリカの監督であり、ニューヨーク派の原点となった人物だ。




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