20年越しのトラヴィスはどう救われるのか?
このように、主人公フランクをトラヴィスの合わせ鏡のように設定した本作であるが、その目的とは何だろうか?これは筆者の推察だが、「20年越しにトラヴィスを描くなら、どう救いを描くのか?」という、裏テーマがあるのではないだろうか。実際にシュレイダーは、本作についてのインタビューで「今だ感情的タイプの(トラヴィスのような)人間には強い愛着を覚えるが、今は中年の視点からそれを眺めている」と述べている*2。
『タクシードライバー』でのトラヴィスは、社会に対するどうしようもない鬱憤を、最終的に暴力という形で爆発させることで解放させた。では、精神疲労で限界ギリギリになっているフランクはどうだろうか?
物語の終盤、フランクは自分が助けたものの、回復の見込みのないまま生かされているだけのメアリーの父親を、苦しみから解放する為に延命装置を外し、彼を安楽死させてしまう。救えなかった人々に対しての無力感に悩んでいたフランクが起こすこの行為は、メアリーの父親の苦しみに終止符を打つという目的以上に、死ぬ運命は確かに存在し、それはやむをえないことなのだ、と自分自身に認めたといえる。
『救命士』(c)Photofest / Getty Images
そしてその後に続く展開は、シュレイダーは原作から大きく改変を行なっている。原作ではメアリーの父の死をきっかけに、フランクとメアリー両者の間に大きな溝ができてしまい、そのまま物語は終わる。それに対して映画は、メアリーは自分の父の死を受け入れた上で、フランクに対して「あなたのせいではない、だから自分を責めて苦しまないで」という赦しを与えるのだ(しかも、その時の姿はローズの幻影になっている)。そして全てから解放されたフランクは、メアリーの横でついに本物の安眠を獲得する。
自分を受け入れてくれる人物に出会うことにより、魂が救済されるという展開は、ある時期以降のシュレイダー作品に多く見られる終わり方だ。古くは『アメリカン・ジゴロ』(80)や『ライトスリーパー』(92)、そしてその後の『魂のゆくえ』(17)や『カード・カウンター』 (21)といった近年の監督・脚本作品にも受け継がれている。フランクはそんな「善き隣人」を得ることで解放された。人の関係性により救われたのだ。孤独で居続けた結果、一人で無軌道に大暴れしたことで解放されたトラヴィスとは正反対の結論である。まさに『救命士』は、成熟した目線から救いを描いた『タクシードライバー』なのである。
本作以降、監督:マーティン・スコセッシと脚本:ポール・シュレイダーのタッグの作品は、現在に至るまで制作されてはいない。しかし、両者の関係が断絶している訳ではなさそうで、例えば『カード・カウンター』制作の際には、スコセッシがプロデューサーとして名前を連ねているなど、両者の関係は決して悪いものではないようだ。スコセッシ80歳、シュレイダー77歳なった今でも(2023年7月現在)、両者はお互いに精力的に映画制作を続けている。願わくば再びタッグを組んだ映画を見てみたいものだ。
*1:`Bringing out' Scorsese (1999) Roger Ebert
*2:『マーティン・スコセッシ: 映画という洗礼』(2020 河出書房新社)佐野亨著
文:島田元輝
太陽企画「move-」チームメンバー。ジャンル映画愛好家。最近は、VHS以降、日本でソフト化されていない映画を発掘する「VHS考古学者」みたいなことを精力的にやってます。
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