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『瞳をとじて』「私はアナ」という呪文、視線の返還

© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

『瞳をとじて』「私はアナ」という呪文、視線の返還

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太陽と月を同時に見る



 ビクトル・エリセは相反する二つの要素の間にあるものを探求する映画作家だ。恐怖と憧れ、幻想と現実、無限と有限。それはほとんど“傷口にして刃”のようなものとして表現される。たとえば『ミツバチのささやき』の少女アナ(アナ・トレント)が、スクリーンに投影される『フランケンシュタイン』(31)の映像に身を乗り出すとき、アナの瞳には未知なるものへの恐怖と共に憧憬の“まなざし”が宿っていた。恐怖が自分の世界を広げてくれるような感覚。そのとき傷は広がり、同時に癒される。これはビクトル・エリセ自身の映画の原体験と深く結びついている。


 『マルメロの陽光』以降、ビクトル・エリセは複数の短編映画を撮っている。少年が自分の手の甲に描いた時計の絵に耳を当て、聞こえないはずの秒針に耳を澄ます傑作『ライフライン』(02)を始め、そのどれもがビクトル・エリセの映画の真髄に迫っている(『ライフライン』の少年は、『ミツバチのささやき』で線路に耳を当てていたアナの姿そのものだ)。



『瞳をとじて』© 2023 La Mirada del Adiós A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.


 『La Morte Rouge』(06)という短編では、ビクトル・エリセが初めて映画に触れた原体験が語られている。当時5歳の少年ビクトル・エリセにとって、ロイ・ウィリアム・ニール監督の『緋色の爪』(44)に感じた恐怖は、スクリーンの外にまで影響を及ぼすほど強烈な体験だったという。内戦中のスペイン。異国からやってきた映画。映画は想像の世界、避難所であり、同時にそこに描かれた恐怖はすぐ隣にある現実とも重なっていた。


 『瞳をとじて』は『別れのまなざし』という未完の映画から始まる。悲しみの王ことトリスト・ル・ロワの住む廃墟のような屋敷。古い薔薇の香りが充満しているような洋館の一部屋。この屋敷の庭園には双面のヤヌス像が置かれている。ビクトル・エリセの愛する作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「死とコンパス」からの引用。物事の始まりと終わりを同時に見据えるヤヌス像は、この映画の主人公であり、かつて映画監督だったミゲルと失踪した俳優フリオの関係と符合する。ミゲルは記憶に生き、フリオは忘却を生きている。そしてヤヌス像は相反する二つの要素、太陽と月を同時に見据えるビクトル・エリセという映画作家の“まなざし”を表わしているといえる。





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