パンクの時代に作られた『ザ・フー キッズ・アー・オールライト』
この映画が公開された1970年代後半の英国は不況に見舞われ、失業者も続出。そんな中で本来はニューヨークで生まれたはずのパンク・ムーブメントが、むしろ、英国で盛り上がった。
その中心的なバンドのひとつが、セックス・ピストルズだが、これに関してはおもしろいエピソードがある。ピストルズのボーカリストで、派手なステージングで知られたジョニー・ロットン(後のジョン・ライドン)は、実は『さらば青春の光』が作られる時、主人公のジミー役に興味を示したという。
ピート・タウンゼンドの自伝“Pete Townsend:Who I Am”(HarperCollins社、日本版は河出書房新社より刊行「ピート・タウンゼンド自伝/フー・アイ・アム」)で、タウンゼンドはこんなことを書いている――「私はジョニー・ロットンと会い、彼と酒を飲みかわし、友だちになった。彼が映画の主人公を演じることも考えた。でも、結局、彼が小ざっぱりした身なりのモッズを演じるべきではない、という点で意見が一致した」
もしも、ライドンが出ていたら、モッズというより、パンクの映画になっていただろう。
ロットンの出演は実現しなかったが、この時代に上映されることで、映画は英国では話題を呼んだ。当時ちょうど、新たなモッズ・ブームが起きていて、ザ・フーなどの影響を受けたザ・ジャムも登場。リーダーのポール・ウェラーは新しい時代のモッズでもあった。
演奏後に楽器をこわす激しいステージで知られるザ・フーは、パンクにも通じる破壊力も持っていた。そんな当時の彼等の魅力を知ることができる伝説のドキュメンタリー映画が、2025年に日本の劇場で初公開となった『ザ・フー キッズ・アー・オールライト』(79)。ザ・フーのファンだったジェフ・スタインが監督で、当時の4人のワイルドなライブ、テレビショーでのインタビューなどを見ることができる。『さらば青春の光』と同じ年に公開。当時、彼らがいかに映画に力をいれていたのかが分る(前述のタウンゼンドの自伝によると、その年のカンヌ国際映画祭にこの2本をひっさげ参加したようだ)。特に英国では、この映画もカルト的な人気を得ている。
『ザ・フー キッズ・アー・オールライト』
また、2025年に日本では、ザ・フーの別の映画も公開された。『ザ・フー キッズ・アー・オール・ライト』のために撮影されたものの、その演奏にザ・フーが難色を示し、ずうっとオクラになっていたというライブ映画『ザ・フー ライブ・アット・ザ・キルバーン1977』(07)である。78年にオーバードーズで亡くなる”奇人“キース・ムーンの最晩年の演奏も見ることができる(かなり壊れていることが分る)。どこか破綻しつつも、この時代にしかありえないワイルドでエネルギッシュな演奏に引き込まれる。
ザ・フーは1964年に結成され、83年にいったん解散。しかし、その後、何度もツアー中心に活動を再開してきたし、近年では2019年にアルバム「WHO」も発表して高い評価を得た。
2025年にアメリカでは最後のコンサートツアーを敢行した。日本にも、また来日してほしかったが、それはかなわず。これまで2度しか来日がなく、初めての来日公演が実現したのは結成40年目の2004年。横浜の日産スタジアムの「ロック・オデッセイ2004」の舞台に立った(ザ・フーに影響を受けたポール・ウェラー等、複数のアーティストが参加したイベント)。
会場は7万人収容できるサッカースタジアムだったが、そこで聴いたロジャー・ダルトリーの声量はあまりにもすごく、会場中に声が響き渡った。最後はピート・タウンゼンドがお約束事のようにギターを壊して、ファンを喜ばせた。有名曲のつるべ打ちのライブだったが、特に「愛の支配」には心を打たれた。この曲を聴くと、いつも『さらば青春の光』の映像が反射的に浮かぶ。そして、絶壁で主人公が自身の青春に別れを告げたホロ苦いエンディングがよみがえってくる。
取材・文:大森さわこ
映画評論家、ジャーナリスト。著書に「ロスト・シネマ」(河出書房新社)他、訳書に「ウディ」(D・エヴァニアー著、キネマ旬報社)他。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「キネマ旬報」、「スクリーン」等に寄稿。東京のミニシアターの歴史を追ったノンフィクション「ミニシアター再訪(リヴィジテッド) 都市と映画の物語 1981-2023」(アルテス・パブリッシング)で日本映画ペンクラブ賞を受賞。ウェブの「スクリーン・オンライン」で「英国 映画人File」を連載中。
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