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『MEMORIES』個人・社会・国家の記憶を紡ぐ、爆裂オムニバス映画

©1995 マッシュルーム/メモリーズ製作委員会

『MEMORIES』個人・社会・国家の記憶を紡ぐ、爆裂オムニバス映画

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記憶から制度へ、制度から技術へ



 大友克洋にとって記憶とは、個人の内奥に沈殿する情動ではなく、むしろ外部にあって世界そのものを変形させる力であり、環境や制度といった巨大な容器のなかに蓄積され、次第に個々の意思を越えて作動し始めるプロトコルのようなものだ。そこで作動を始めた記憶は、過去ではなく現在を裏側から書き換えるコードとなる。つまり記憶とは、世界を背後から駆動するOSそのもの。物語の登場人物たちは、そのOSが生成する現実の歪みへと、否応なしに巻き込まれていく。


 『彼女の想いで』で、エヴァの残響が物質化し、空間そのものが回想の海へ沈んでいくのは、記憶が外部データ化して災害のように世界へ侵入していくからだし(この質感は、タルコフスキーの『惑星ソラリス』に近い)、『最臭兵器』で社会が混乱するのは、国家や軍事研究の蓄積(=社会化された記憶)が、逸脱したかたちで噴出するから。そして『大砲の街』では、歴史的暴力が制度へと固定化し、人々の身体感覚を支配するまでに至る。人間は制度をつくったつもりでいながら、いつのまにか制度が人間を規定するようになり、街のリズムそのものが忘却された暴力の反復装置と化す。



『MEMORIES』©1995 マッシュルーム/メモリーズ製作委員会


 ここで重要なのは、三篇が単なるテーマ違いの短編ではなく、「個人の記憶 → 社会の記憶 → 国家/歴史の記憶」というスケールの拡張を踏んでいること。記憶の作用範囲が一段ずつ広がるにつれて、人間はそれを制御できなくなり、やがて都市の設計や制度のリズムそのものが、忘却された暴力のルーチン化へと変わっていく。個人・社会・国家という階層は、まるでレンズの焦点距離を段階的に変えるように記憶の作用範囲を拡大し、その射程が広がれば広がるほど、記憶は物語の表面ではなく、世界そのものの設計原理として機能していく。


 『大砲の街』で示された「記憶が制度となり、人間を支配する」という構図は、明らかに『スチームボーイ』(04)に引き継がれている。蒸気という古典的エネルギーが暴走し、都市を変形させる現象は、歴史と暴力の記憶が都市インフラの深部に埋め込まれ、テクノロジーという形で再生産されているかのよう。「童夢」の集合住宅が超能力という記憶の蓄積場所として、「AKIRA」の超能力開発施設が国家の記憶の暴力装置として、『大砲の街』の砲撃システムが歴史の記憶の定着点として描かれた延長線上に、『スチームボーイ』の蒸気機構は存在している。つまり大友作品における技術装置とは、単なるSF的ガジェットではなく、記憶の保存形式であり、記憶の暴走装置でもあるのだ。


 その意味で『MEMORIES』は、記憶から制度へ、制度から技術へと向かう思想的連続の中間地点に位置する作品といえる。



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