アメリカンニューシネマの始まり
テキサス州オースティンで生まれ育ったトビー・フーパー監督。幼い頃から映画に興味を持ち、学生時代には短編映画や記録映画を手がけ、映画界への道を探っていた。その頃のアメリカは1960年代、ヒッピーカルチャー全盛期。カウンターカルチャーが幅を利かせ、1969年に『イージー・ライダー』が公開。アメリカンニューシネマの流れが本格化し、反体制、暴力性、悲劇的、不条理など、それまで常識とされてきた価値観への抵抗が形となっていく。
『イージー・ライダー』予告
また、それまで作られてきたオカルト的な怪奇映画への反抗から、セット中心ではないロケ中心のホラー映画が作られ始めた時期である。トビー・フーパー監督もその中の一人であり、低予算でも製作しやすいホラー映画で勝負に出ることとなった。恐怖映画の常識や型を学んだ上で、それらをあえて壊し、新たな恐怖映画の歴史をリスタートさせる意気込みがあったに違いない。
物語はいたって単純だ。テキサスの田舎を、1台のバンで旅している若者男女5人。その地では墓荒らしが問題になっており、彼らも身内の墓が荒らされていないか確認しようとしていた。道中スタンドに立ち寄るも、その店にはガソリンが無く、仕方なく助けを求めることとなってしまう。やがて一軒の家屋に流れ着き、足を踏み入れるところから悪夢の惨劇が始まる…。
こう書くと、よくある話ではないかというツッコミが入りそうだが、いやいや、後年に製作される他の作品に見られるような、無軌道な若者たちが田舎やキャンプで命を落としていく展開は本作が元祖なのだ。
低予算で自主製作された本作はなんとか完成はしたものの、配給先も決まっていなかった。お蔵入りしそうなところを、なんとマフィアがらみの会社に救われ、ひどい契約条件だったが無事公開された。関わったスタッフや俳優の誰もが、公開されるとは思っておらず、当時流行っていたドライブインシアターで公開される程度で終わるかと思っていたという。しかし、蓋を開けてみれば批評家からも観客からも熱烈に支持され、瞬く間に大ヒット。国によってレイティングが異なり、多くの国では上映禁止になってしまったことが、逆に噂を呼び、カルト化していく条件も揃っていったのだった。