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『デューン/砂の惑星』スタジオに翻弄された、デヴィッド・リンチ唯一無二のSF
『デューン/砂の惑星』あらすじ
惑星アラキスは、不老不死の薬物メランジが生産される唯一の星であり、その覇権をめぐって皇帝は陰謀を画策していた。それを察知したスペース・ギルドのナビゲイターは、皇帝のもとを訪れ詰問する。皇帝は声を増幅させて物質を破壊する兵器“モジュール”を開発したレト・アトレイデス公爵をうとましく思い、一旦彼にアラキスを与えたうえで、公爵と敵対するハルコネン男爵をけしかけて失脚させようとしていた。しかし、ナビゲイターは公爵の息子ポール・アトレイデスこそが、自分たちを脅かす存在だと考え暗殺を命じる。アラキスに降り立った公爵家は、ハルコネン男爵が手配した軍団から襲撃を受け、母ジェシカとともに砂漠へと逃亡する。二人はアラキスの原住民であるフレーメンの集団に合流し、モジュールを与えて一大軍団を組織する。ポールは巨大なサンドウォーム(砂虫)を操り、ハルコネン男爵の軍を次々と壊滅してゆく。やがてフレーメンに伝わる“命の水”を飲んで超人化したポールは、皇帝に最後の闘いを挑む。
Index
SF長編小説の映像化
かつて映像化不可能とさえいわれた、フランク・ハーバードのSF大河文学「デューン 砂の惑星」(早川書房刊)。イタリア映画界の名プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスは、当時『エレファント・マン』(80)で喝采を浴びた奇才デヴィッド・リンチを招聘し、長年の構想の末に同著書の映画化を実現した。
リンチ監督の長編3作目にして、初のSF作品となった『デューン/砂の惑星』(84)は、結果として製作費4,000万ドルを回収できず、赤字に終わる。評価も芳しいものではなかった。本作は、監督も認める失敗作であるのだが、その製作には多くの時間と労力、そして監督の気概が投入されていた。
『デューン/砂の惑星』(C) 1984 DINO DE LAURENTIIS COMMUNICATIONS. ALL RIGHTS RESERVED.
原作者のハーバードは、1963年から明くる64年にかけて、米アナログ誌で“Dune World”を連載。さらなる1年後の65年には、その続編となる“The Prophet of Dune”を発表し、その2作をあわせてシリーズの第1部「デューン 砂の惑星」を上梓した。砂の惑星“アラキス”を舞台に、封建的な政治体制を描いた同著書は、あまりに大きすぎる規模と設定の複雑さから文字通り映像化不可能といわれ、幾度となく映像化が試みられたが、その度にプロジェクトは潰れていった。
最初に映像化がアナウンスされたのは、1971年のことである。『猿の惑星』(68)の映画プロデューサー、アーサー・P・ジェイコブスが原作小説の映像化権を獲得し、企画が進められようとしていた。しかし、同氏が企画初期の73年に急死したため、プロジェクトは日の目を見ずして消え去った。その後、2度目のチャンスは、『エル・トポ』(70)の巨匠アレハンドロ・ホドロフスキーの手にわたった。
ホドロフスキーのもとに集まったのは、のちに『エイリアン』(79)で名を馳せる、造形作家のH・R・ギーガー、同じく『エイリアン』脚本のダン・オバノン、音楽には世界的名声を誇るサイケ/プログレロックのピンク・フロイド、キャストには『市民ケーン』(41)の名匠オーソン・ウェルズ、スペインのシュルレアリスム作家、サルバドール・ダリなど、各界から非凡のクリエイターが集結した。
『ホドロフスキーのDUNE』予告
しかし、である。ホドロフスキーの構想は極めてスケールの大きいものであり、原作小説の濃密さを徹底して反映させるため、上映時間は12時間を要するほどだった。その桁外れなスケールの構想は、資金面の理由から撮影開始に至ることなく、頓挫している。事の顛末はドキュメンタリー作品『ホドロフスキーのDUNE』(13)を参照してほしい。