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『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (後編)

(c)Photofest / Getty Images

『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (後編)

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ジョン・ラセターの反応



 例えば、ディズニーの試写室で『トロン』を観た若手アニメーターのジョン・ラセターは、非常に衝撃を受けている。それと同時に、「これが外部のスタジオにできて、なぜディズニー内で作れないのか」を疑問に感じた。


 そこでMAGIに働きかけ、モーリス・センダックの「かいじゅうたちのいるところ」を原作とした、試作フィルム『ワイルド・シングス・コンピュータ・アニメーション・テスト』を1983年に作った。これは、MAGIがレンダリングした3DCGの背景に、ラセターの同僚であるグレン・キーンが作画したキャラクターを合成した作品で、ラセターはデザインと演出を担当していた。


 この成果をSIGGRAPHで発表すると同時に、トーマス・M・ディッシュ原作の「いさましいちびのトースター」(*7)でこの手法を用いるという社内プレゼンを行った。しかしこの一連の行動が、ディズニー上層部を激怒させることになる。


『ワイルド・シングス・コンピュータ・アニメーション・テスト』


 ディズニー内部では、CGに対する否定意見が圧倒的に強かったのだ。つまり彼らは、「CGの発展は自分たちの仕事を奪う」という恐怖感を感じていたのである。そして長編アニメーション部門のマネージャーだったエドワード・ハンセンは、ラセターの解雇を言い渡す。


 無職となったラセターは、「クイーン・メリー号」(引退してカリフォルニア州ロングビーチに係留され、博物館兼ホテルとなっていた)の船内で1983年に開催されたCGの学会に出席し、『ワイルド・シングス・コンピュータ・アニメーション・テスト』を上映した。ここでルーカスフィルムCGプロジェクトのエドウィン・キャットマルがラセターに声をかけ、インターフェース・デザイナーという肩書で雇うことを決定した。


 その後この2人(*8)が中心となってピクサー(後のピクサー・アニメーション・スタジオ)を設立し、さらにウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの社長とCCOになるのだから、運命というものは分からないものである(さらに言えば、ラセターがセクハラでピクサー・アニメーション・スタジオを辞めることになるとは…)。


*7 この企画は、ハイペリオン・ピクチャーズとジェリー・リースの監督で、『ブレイブ・リトルトースター』と題されたセルアニメとして完成され、米国とドイツで1987年に劇場公開されている(日本ではビデオ・DVD発売のみ)。ちなみにリースはクロイヤーと共に、ディズニー側から『トロン』に参加したアニメーターで、彼らはストーリーボードやMAGIのCGコレオグラファーを担当していた。


『Technologically Threat 』


 またクロイヤーは、『トロン』終了後にディズニーを辞め、ジョン・ホイットニー・ジュニアのデジタル・プロダクションを経て、クロイヤー・フィルムズ社を設立した。ここで彼は、“コンピューターに職を奪われる”という恐怖心を抱くサラリーマンを主人公とした、『Technologically Threat 』(88)というCG作品を作っている。


*8 実際は、アルヴィ・レイ・スミスが副社長として大きく関わっているが、彼は会議中にスティーブ・ジョブズ専用のホワイトボードに書き込んだ。するとジョブズは激怒して彼をいきなり解雇し、さらにピクサーの歴史からも記録を抹消してしまった。



CGスタッフのその後



 本作の公開直後、トリプルアイは急速に勢いをなくしてしまい、エンターテインメント・テクノロジー・グループは1983年に閉鎖されてしまう。ディレクターを務めていたテイラーも『トロン』制作中にMAGIに移籍し、サンタモニカにLAオフィスを構え、ハリウッド映画やテレビCMの需要に応える体制を固めた。


 このMAGI/LAオフィスは、ディズニー映画『何かが道をやってくる』(83)のCG制作テストを受注する。担当箇所は、夜の町を蒸気機関車が走るシーンで、ディズニー側は実写的リアリティを求めていた。しかしCSGの表現力には限界があり、この要求を充たすことはできなかった。結局、採用には至らず、こういう不幸な出来事でスタートを切ったLAオフィスは1985年に閉鎖されてしまい、テイラーは独立することになる。またニューヨーク本社も経営が悪化し、1986年に倒産してしまった。


『何かが道をやってくる』予告


 キャラクター「ビット」を手掛けた、デジタル・エフェクトの業績も悪化していった。1985年には社長のローズブッシュが同社を離れ独立し、残されたメンバーは活動を続けたものの、1986年には倒産してしまった。


 一方、閉鎖されていたトリプルアイ/エンターテインメント・テクノロジー・グループの設備は、1985年にカナダのオムニバス社が買い上げた。同社はさらに、デジタル・プロダクションやRA&A、エイブル・イメージ・リサーチを吸収合併する。さらに、倒産したMAGIとデジタル・エフェクトのスタッフも吸収し、一挙に世界最大のCGプロダクションとなった。だが、互いに作業の仕方や、コンピューター言語も異なる会社を強引に束ねた所で、うまく機能することもなく、1987年に倒産してしまう(日本のオムニバス・ジャパンだけが生き残った)。


 こうして『トロン』に関係した人々による、第一世代のCGプロダクションは絶滅し、90年代に活躍する第二世代にその座を譲ることになったのである。



<参考資料>

○MAGIの1984年デモリール


短く入っている黒い蒸気機関車の映像は、『何かが道をやってくる』(83)のCGテスト。中間部のアニメーションは、ジョン・ラセター演出による『ワイルド・シングス・コンピュータ・アニメーション・テスト』。



○デジタル・エフェクトの1985年デモリール



○オムニバス社の1985年デモリール


冒頭の電子回路は、ジョー・ダンテ監督の『エクスプロラーズ』(85)



○合併したオムニバスのデモリール


スピルバーグのドラマ『世にも不思議なアメージング・ストーリー』(85~87)や、ランダル・クレイザー監督の『ナビゲイター』(86)、ミック・ジャガーのPV「ハード・ウーマン」(85)などが含まれる。



○合併したオムニバスの、倒産直後に撮影された社内映像




前編はこちらから



文: 大口孝之 (おおぐち たかゆき)

1982年に日本初のCGプロダクションJCGLのディレクター。EXPO'90富士通パビリオンのIMAXドーム3D映像『ユニバース2~太陽の響~』のヘッドデザイナーなどを経てフリーの映像クリエーター。NHKスペシャル『生命・40億年はるかな旅』(94)でエミー賞受賞。最近作はNHKスペシャル『スペース・スペクタクル』(19)のストーリーボード。VFX、CG、3D映画、アートアニメ、展示映像などを専門とする映像ジャーナリストでもあり、映画雑誌、劇場パンフ、WEBなどに多数寄稿。デジタルハリウッド大学客員教授の他、東京藝大大学院アニメーション専攻、早稲田大理工学部、日本電子専門学校、女子美術大学短大などで非常勤講師。



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