ウェルズVSマンキウィッツのバトル勃発
ここで『Mank/マンク』が生まれるきっかけになった、ポーリーン・ケイルの「Raising Kane」が引き起こした論争について駆け足で説明したい。
1930年代の終わり、経営難に陥っていた映画スタジオのRKOは、演劇界やラジオドラマで脚光を浴びていた若き天才オーソン・ウェルズに注目し、破格の待遇でハリウッドに招聘した。いくつかの企画が浮かんでは頓挫していく中、ウェルズはマンキウィッツにオリジナル企画の脚本を依頼した。マンキウィッツは1920年代にNYの演劇界からハリウッドに身を移して売れっ子脚本家になったが、この時期は低迷期で、ウェルズが手掛けるラジオドラマを手伝っていた。
ウェルズはマンキウィッツを酒から隔離して執筆に専念させようと、カリフォルニア州ヴィクターヴィルのケンパー・キャンベル・ランチにあった貸し別荘に送り込む。そこで6週間かけて書き上げたのが、やがて『市民ケーン』として結実する脚本の第一稿だった。
二人の諍いのきっかけは、撮影中に取材を受けたウェルズが「『市民ケーン』を書いたのは自分だ」と発言したことだった。当時の慣習では脚本家がクレジットなしで仕事をするケースは多く、プロデューサーでもあったウェルズが法的な著作者になっていた。仮にマンキウィッツが脚本を100%書いていたとしても、契約の上ではウェルズは自分の単独名義にすることができた。
『Mank/マンク』NETFLIX
しかしマンキウィッツは、『市民ケーン』では脚本家としてクレジットされることを要求する。ハリウッドで、著作権とは別に脚本家の名前をクレジットする動きが進んでいたことも後押しになった。そして前述したように、最終的にはマンキウィッツとウェルズの共同脚本名義にすることで決着を見た。完成した『市民ケーン』はアカデミー賞で9部門にノミネートされたが、前述のハースト陣営の妨害もあって脚本賞のみの受賞に留まった。皮肉にも、クレジットで争ったウェルズとマンキウィッツが一緒に受賞することになったのだ。
受賞についてコメントを求められた際、マンキウィッツは「今オーソンがここにいない(新作映画の撮影でブラジルにいた)のは納得だ、脚本を書いた時も彼はそこにいなかったのだから」とかなり嫌味な発言をしている。一方で、マンキウィッツより18歳年下だったウェルズの方が、似たような皮肉を込めているわりに大人の対応をしたように見える。ウェルズはブラジルからマンキウィッツにこんな手紙を送っている。
親愛なるマンキー。アカデミー授賞式の晩餐会に届くように、こんな電報を送るつもりでいたよ。「(オスカー像の)僕のための半分にもキスしていいよ」。すっかり遅くなってしまったので、君の返事もこっちで書いてみた。「親愛なるオーソン、お前の分なんてあったっけ?」(抜粋)
ウェルズの手紙からも、マンキウィッツは自分の単独脚本、ウェルズは二人の共同脚本だと主張していたことが読み取れる。そして約30年を経た1971年になって、評論家のポーリーン・ケイルがマンキウィッツ支持を表明。1953年に故人となったマンキウィッツの名誉回復を訴えたのだ。さらにピーター・ボグダノヴィッチに代表されるウェルズ擁護派がさまざまな形で反論し、激しい論戦が繰り広げられることになった。