2021.04.07
生命と自我を問う『フランケンシュタイン』と、オチなかったジョーク
殺人兵器としての機能を持ちながら、同時に何も知らないピュアネスから、優しい自我を目覚めさせていくという『ショート・サーキット』の物語骨子は、近年では『アイアン・ジャイアント』(99)や『チャッピー』(15)にも見られる、ロボット映画の雛形と言えるだろう。この雛形の祖は、相反するネガポジの関係ではあるが『フランケンシュタイン』まで遡ることが出来る。
ボリス・カーロフが「怪物」を演じ、アイコニックな存在となった1931年の『フランケンシュタイン』は、モンスター映画として原作をかなり端折った内容ながら、「創造主殺し」や「無知故の暴力性」といったフランケンシュタインの怪物が生来的に持っている特性が活かされた、キャラクター設定がなされていた。
『フランケンシュタイン』で「怪物」は、創造主から見放されたことで悲しみ、怒り、そこから復讐の心を芽生えさせる。この工程は「悪」の心を生み出す過程だとされている。一方、『ショート・サーキット』では創造主であるニュートンやステファニーなどの身を呈した庇護により、ナンバー5は「善」の心を生み出す。その対比のコントラストを強くするために、ナンバー5はフランケンシュタインの怪物と同様に落雷の力で「命」を獲得するのである。
『フランケンシュタイン』予告
さて。終盤でようやくナンバー5との対話が叶ったニュートンは「自我」の誕生を探るため、あるジョークを聞かせる。
「神父、牧師、ラビが教会への寄付について話をしていた。神父は「地面に円を描き、お金を宙に投げ、円の中に入った分を寄付する。」と言った。牧師は「お金を宙に投げ、円の外側に出た分を寄付する。」と言った。ラビは「お金を宙に投げ、神様が望むだけ差し上げる。」と言った。」
ナンバー5はしばらく考え「そうか!わかった!」と大笑いし出す。この手のジョークに慣れていないと「複雑な冗談を理解して笑った」と思うかもしれない。しかし、実はこの段階でジョークは「オチ」ていないのだ。このジョークは「ユダヤ系はガメつい」というアメリカン・ジョーク特有の差別的な偏見に基づいたもので「神様が望むだけ差し上げる。」の後に「そして、落ちたお金は私が拾う。」でようやくオチるのである。
つまりナンバー5は「ニュートン(演じるのはユダヤ系のスティーブ・グッテンバーグ)が、ステレオタイプな偏見を避けたか、単純に忘れたかしてオチをすっ飛ばしているのが気まずいし、かわいそうなので笑っておこう。」と相手を慮るあまりに、非常に人間的な「自我」を発揮する。という展開なのだ。