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『すずめの戸締まり』新海誠が描く災禍との対峙、心の復興

(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会

『すずめの戸締まり』新海誠が描く災禍との対峙、心の復興

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被災者であるすずめの死生観



 「震災を描く」というテーマは、すずめの人物造形にも強く作用している。前述の通り、すずめは震災の被災者だ(名指しはされないものの、冒頭の描写や「12年後」という年代設定、舞台設定的にも東日本大震災であろう)。そのことが、彼女の内面にも影響を及ぼしている。特に顕著なのは、死生観。すずめは劇中で何度も「死ぬのは怖くない」と繰り返す。これは勇気から来るものではなく、経験則から導き出されたもの。すずめはこうも言う。「生きるか死ぬかは、ただの運」だと。自分だけが“たまたま”生き残った彼女の放つ言葉は、重みと説得力がまるで違う。


 『すずめの戸締まり』は女子高生が“戸締まり”を行う物語だが、自身の命を危険にさらすことへの葛藤が描かれないのがミソだ。すずめは最初こそ草太をバックアップする立場だったのが、彼が椅子になってしまったことで前線に立つようになる。だが、「そういう状況になったから受け入れる」のではなく、すずめは最初から積極的に介入しようとする。その原動力のひとつが被災体験であり、「失ってしまったからこそ同じ想いをさせたくない」と「自分の命は惜しくない」が混ざり合っている。


 その予兆となるシーンは冒頭から既に仕込まれており、何も知らないすずめは後戸を見つけた際、躊躇なく水の中に足を浸ける。個人的に初見時、靴も靴下も脱がずに後戸に向かって歩いていく描写に微かな違和感を覚えたものだが、これはすずめの「自分の命に対する構わなさ」の前振りとしても機能している。そして、すずめが閉じ師として前線に立つようになってからも、彼女は目的を達成するためにどんどん危険を冒していく。まるで「自分は生かされただけ」とでもいうように――。



『すずめの戸締まり』(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会


 こうした彼女の自己犠牲精神は、王道の少年漫画の主人公のようなナチュラルボーンな性質ではなく、「そうなってしまった」点が重要。『君の名は。』の三葉は巫女の家系、『天気の子』の陽菜は鳥居をくぐった結果「選ばれた」存在だったが、『すずめの戸締まり』のすずめは直接的な被害者だ。彼女にミミズが見える能力が発現した理由も劇中で明かされるが、悲劇的なニュアンスを含んでいて何ともやるせない。後戸を封じる際、鍵を使い呪文を唱え、最後に「お返しします」と言うのだが、このニュアンスが実に秀逸だ。すずめは闘争本能でも自己顕示欲や出世欲でもなく、ただただ被害を抑えたいがために自分そっちのけで力を行使する。その原動力含めて、どこまでも喪失が付きまとうキャラクターといえるだろう。


 こうしたすずめの危なっかしさや孤独感は、保護者である環(声:深津絵里)や相棒となる草太を中心とした周囲の人間の心配や、旅の中で出会った人々の憂慮によって補填され、同時にコントラストも形成していく。そして、いわば自己犠牲の精神の塊のようだったすずめの心境の変化――「死ぬのが怖い」という感覚の芽生えが、後半に用意されたドラマ面の盛り上がりにリンクしていくという仕掛けが施されている。『すずめの戸締まり』は、主人公の内に巻き起こる喪失と再生が物語とオーバーラップする、鎮魂の物語なのだ。





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