1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章
  4. 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』浅野いにお作品をアニメ化すること
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』浅野いにお作品をアニメ化すること

©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』浅野いにお作品をアニメ化すること

PAGES


マクロからミクロまで



 2014年にスタートした原作漫画の、この奇妙な設定の核となるのが、2011年に起こった東日本大震災や原発事故を受けての反応であることに異論を持つ者は少ないだろう。現在の日本を生きる作者の実感や、世界観、社会観、さまざまな情報を描くことによって、総体として掘り出そうとする試みが、この物語でありヴィジュアルなのだと考えられるのである。


 身の回りを取り巻くカルチャー、災害の犠牲者、自身の存在への不安、未来に見出したい希望、逆に悲観的な見通しなど、ここでのマクロからミクロまでを描写しようとする姿勢は、ある種の文学的なアプローチだともいえるだろう。溢れるような情報の洪水を、デジタル機器によって享受することで、逆に多くのものに実感が持てない時代……。戦争や環境問題、飢餓、民族間の問題などを遠くに感じる一方で、じつは身近にも同様の問題が山積しており、自らの命が危険にさらされるような状況によって、現実の感覚や身体感覚が両極に引き裂かれる。そんな経験が、門出やおんたんの日常を襲う。


 1980年代の村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」、1990年代の「新世紀エヴァンゲリオン」、2010年代初頭の「輪るピングドラム」など、自己の存在の問題と社会の大きな動きを結びつけながら、時代の閉塞感を痛みとともに打破していきたいという破壊衝動と、小さなスケールでの自己肯定や、ささやかな幸せを希求する価値観などを、創作というかたちによって、表現者たちは時代とともに語ってきた。



『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee


 同様に、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』もまた、浅野いにおなりの、表現者としての時代や大きな出来事との個人的な折り合いのつけ方であり、社会に対する一つの姿勢の表明でもあるのだろう。あくまで二人の少女の物語として本作を観ると、外側の設定や物語が散漫に思えてくるが、こういった、漫画やアニメーションによる、時代を捉えようとする一種の文学表現としての内容を味わっていくことで、さまざまな視点が存在することに納得ができるのではないだろうか。


 そう考えれば、音楽ユニット「YOASOBI」のメンバー、幾田りら、元アイドルのアーティストである、あの という、若い世代からの絶大な人気を誇る二人に、主人公となる少女たちの役をあてているのは、まさに“時代”の印象を作品に刻みつける意図があるからだと考えられる。彼女たちのイメージを乗せることで、アニメ業界の外側から、社会、カルチャーを包括して本作を語ることを促しているようでもある。





PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章
  4. 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』浅野いにお作品をアニメ化すること