刺激のない“自己の循環”
ここからのストーリーは、非常にシンプルかつ、絵本のように寓話的だ。音楽活動を促す電話、広告会社のビジネスマン、モルモン教徒の勧誘など、次々とブレイク邸を訪ねる者が現れる。とくにビジネスマンのくだりは、シリアスな内容のなかで、珍しくユーモアのある部分だ。明らかに以前邸宅の主人だった人物とブレイクが取り違えられているのだが、朦朧としたブレイクが質問に淡々と答えてしまうため、互いの認識がズレたまま会話が成り立ってしまうのである。
こうしたエピソードの数々は、後の展開を駆動させるようなものではないため、一見するととりとめのない散文のような印象を与えられるかもしれない。しかし、この出来事をある種の象徴だととらえることで、意図が明らかになってゆくのではないか。つまり、これらの思わせぶりな闖入者とは、ブレイクの夢や音楽活動、ビジネスや宗教などの人生をかたちづくるピースが、登場人物というかたちに変化しているのだと考えることができる。
プレッシャーや過度な期待にさらされ苦しんでいたブレイクにとって、少なくともこれらの要素……ある人にとっては生きる意味になり得るものは、最期の時間を長引かせる助けにはならなかった。それだけでなく、むしろブレイクを突き放し、厭世観を強める要素になっていた構図が示されているとも考えられる。

『ラストデイズ』(c)Photofest / Getty Images
ブレイクが演奏を始めるシーンは、この映画のハイライトである。ループ演奏を利用して、次々に楽器を変えながら、ワンマン・バンドとして、彼は曲づくりに打ち込もうとする。しかし、その激しい演奏とは対照的に、ブレイク自身は打ち沈んでいき、最終的には床に倒れ込んでしまう。彼の創造を助ける仲間たちは、そこにはいない。ここでの双方向的な刺激のない“自己の循環”が、自分の才能の限界だと感じたのかもしれない。生きる意味だったはずの創作活動そのものもブレイクには味方してくれず、重圧は強まるばかりだ。
奇妙なのは、ブレイクの邸宅に住んでいる取り巻きたちだ。彼らは、ブレイクがリハビリ施設に収容されている間に、そこを図々しくも自分の家のように使っている。カート・コバーンが亡くなっていた状況からは、そのような取り巻きが家にいた事実は、少なくとも公的には認められないため、この設定は映画が膨らませた部分なのだろうと考えられる。
最近になって、カート・コバーンの死がエプスタイン事件にかかわる他殺であったという、根拠の薄い陰謀論がSNSで拡散された。ケネディ大統領の暗殺事件同様、時代を象徴する事件には、こうした不穏な可能性が定期的に語られる。本作の描写は、そうした部分を示唆する不気味さもあわせ持っている。
映画に登場した取り巻きたちは、ブレイクを支えようとするどころか、面倒ごとは避けてブレイクから何かを得ようとばかりしているように見える。とはいえ、彼らにブレイクへの悪意や害意があったというわけではないのだろう。塞ぎ込んでいるブレイクを遠慮がちに扱いつつも、その苦しみをなかなか同じ目線で分かち合おうとしないのは、ブレイクが世界的な大物アーティストであることが主たる要因なのかもしれない。弱った人間としてではなく、彼はここでロックスターという“記号”として扱われる。